気がついたら、PRをやっていた。
――ラグビーを始めたのはいつからですか?
小学校2年生の時からです。僕の家の近くで何か変な形のボールを蹴っている人を見て、自分もあのボールを蹴りたいなと思ったら、それがラグビーボールでした。僕は「キャプテン翼」世代だったので、どちらかというとサッカーの方が好きだったんですけど、ラグビーボールの形って変わっているじゃないですか?それで、興味を持って入ってみたらラグビーでした。
――地元のラグビークラブに入って、ラグビー人生が始まります。
まずボールの形が変わっていることにびっくりしたんです。それと、まさかあんなに体を当てるスポーツだとは思っていなかったです。だからか、僕はラグビーの試合をするのが嫌だったみたいで、小学校の時の自分を知る多くのコーチが、試合の前は泣いていたって言うんですよ。
――なぜ嫌だったのでしょう?
痛いからじゃないですか?(笑)あんまり覚えていないんですけど、ただ試合をするのが嫌だったとか、しんどかったとかということは覚えています。それでも、なんとなくラグビーをやっていたんですよね。
――当時のポジションは?
一応PRっぽいポジションでしたね。FWです。ボールを蹴る機会なんてまず無いし、気が付いたら、ボールを蹴ったら怒られるポジションになっているじゃないですか。ボールを蹴りたくて始めたのに、わからないものですよね。
――それでも辞めることなく続けたのですね?
そうですね、でも何回かはラグビーを辞めようと思っていた時期もありました。高校の時なんかは、「辞める辞める」ってずっと言っていましたね。
――高校は淀川工業高校の出身ですが、ラグビー部に入るための進学ですか?
私立の推薦という話もありましたし、僕の家の近くには布施工業高校がありましたが、当時は淀川工業高校の方がラグビーが強かったので、ちゃんと勉強をして淀川工業高校に入りたいと思って、進学を決めました。
――当時の淀川工業は大阪でも上位に入るチームだったと思いますが。
それが、僕らが3年生の代に大波乱を起こしてしまって、2回戦で負けると言う失態を起こしてしまったんです。それがきっかけとなって淀川工業は衰退していくんですよ(笑)。まさかの敗退をしてしまいました。モチベーションの低さもあったと思うんですけど、当時の同級生も情熱を持った子もいるにはいましたけど、諸先輩方に比べると情熱は少なかったです。僕も「辞めよう」と思っていましたし、予選の頃には大学も決まっていたので、モチベーションは低かったですね。
――何故そこまで辞めたいと思っていたのでしょうか?
中学生の時のチームはそこそこ強いチームでした。そのチームから入ってきた僕は、高校1年生の時には一目置かれていたんですね。でも疲労骨折をしたことがきっかけで使ってもらわれなくなって、試合に出られなくなったんです。それで面白くないなと思うようになって、高校2年生の時はずっと「辞める」と言っていました。母親からは「せっかく入ったんだから高校3年間はちゃんとやりな」って言われたので、3年間はやり通そうと決めました。
――全国予選の時には既に近畿大学への推薦が決まっていたということですか?
工業高校でしたから、就職コースと進学コースに分かれるんですよ。それで僕はラグビーを辞める気だったので、就職コースの方を選んでいました。ある日、監督から「お前ちょっと近大に行ってこい」と急に言われて、「何で行くのかな?」と思いましたけど、練習に行ってみたら、そこで推薦が決まったんですよ。それで近畿大学に行くことになりました。
――近畿大学のラグビー部はどのような雰囲気でしたか?
近畿大は楽しかったですね。100人以上もいる部員の中で、僕は特に高校での実績もありませんので下の軍からのスタートでしたけど、幸いなことに大学の監督から目を掛けていただいたんですね。近畿大はチーム内で途中から「ジュニア」と「シニア」のチームに分かれるのですが、「シニア」っていうのは要するに先発メンバーとリザーブ組、「ジュニア」というのはそれ以外の人たちです。さらに「ジュニア」の中でも何軍かに分かれていて、1ヶ月に2回くらい、「ジュニア」上位のメンバーは「シニア」メンバーとの入れ替え戦をしていました。そこで僕は「ジュニア」のなかでも入れ替え戦のメンバーに2回くらい選ばれて、1年の夏合宿の時までには「シニア」のメンバーに入ることが出来て、秋の大会ではリザーブメンバーに入ることが出来ました。実力をしっかりアピールすれば、試合に出られるという実感が沸いて、その過程がとても楽しかったです。
――その時には「3番」(右PR)のポジションは定着していたのですか?
はい、「3番」をやっていました。言い忘れていましたが、僕「3番」が嫌いだったんですよ。高校の時も「3番をやれ」って言われましたが、それがすごく嫌で。「3番」のジャージをもらうことがすごく嫌だったんですね。「3番」は辛いんですよ、スクラムも走るのも...。それで、大学の時も最初は「1番」(左PR)として入りましたが、2年の時にまた「3番をやれ」と言われて、すごく嫌だった覚えがあります。「嫌です」と断ったんですけど、「そこしかない」と言うので諦めました。それ以来ずっと「3番」です。
――「スクラム」は好きでしたか?
それが、僕、スクラム弱すぎて大嫌いだったんですよ(笑)。もう本当に弱くて。それで当時、近畿大のスポットコーチに大西一平さんという方がいらっしゃって、この方にも僕は目を掛けていただいたんですね。肩と首の皮がズル剥けになるまでスクラムを組まされたりしていました。なんで目を掛けていただいたのかわからないんですけど。
――自分としてのアピールポイントは何でしたか?
やっぱり、当時はボールを持って走るのがすごく好きで、一生懸命ボールを持ってアタックしていたんですよ。ボールを持ってパワー勝負をする感じでした。体をブチ当てるのが好きだったんです。あと、監督からは「性格も含めて将来性がある」とずっと言っていただいて、僕の調子が良い時も悪い時も一貫して使ってくれていました。その近畿大での経験があるから、今の僕があると思いますね。
――監督の言う「将来性」とは何だと思いますか?
後になって知りましたが、まず「素直に言うことを聞く」ということでした。それから「真面目に練習をする」ということ、「きつくても自分で進んでやる」ということ、この3つが将来性を感じる理由だと言っていただきました。
――近畿大の練習は厳しかったですか?
他の大学に比べれば楽だったと思います。大西一平さんが来た時の練習はすごくきつかったですけどね。「100Mモール」と言って、FW8人対全員でモールを押し切らなくてはいけない練習とかありまして、それが一番きつかったです。あとは朝一にグラウンドを走るんですけど、10周、5周、3周、1周、半周それぞれ走るという練習があるんです。それが、それぞれに制限タイムが決まっていて、そのタイムに入れない選手はまた走らなければいけない。だから永久に周っている選手とかいましたね(笑)。
――大学卒業後は近鉄ライナーズに入団します。社会人ラグビーのことは大学時代から視野に入れていましたか?
そうですね、ラグビーでどこかに入れたらいいなとは思っていました。近鉄に決めたのは、誘っていただいたのが早かったのと、大阪のチームだからということで決めました。関東のチームからもお誘いはいただいていましたが、関西の方が良いと思っていましたので。
――当時はトップリーグがまだ始まった頃だったと思います。近鉄はどんなチームでしたか?
社会人1年目に関しては、すごく洗礼を浴びた記憶があります。やっぱり社会人の組むスクラムは学生の組むスクラムとは全く違うんですよね。何から何までも違うんです。自分が弱いということに気付かされました。近鉄の時もその後に入ったNECの時も、良い先輩に恵まれていました。近鉄の時のPR陣には、石田大起、辻本裕、浜辺和という当時日本を代表するPRの選手がいらっしゃって、その先輩方の努力の量を知りました。そこまでやらなくては社会人では通用しない、ということを教えていただいたのが近鉄の先輩方です。とにかく何においても納得のいくまでずっと練習をしていました。
――その先輩達の中で斉藤選手はどのような努力をしましたか?
当時の近鉄は「重量・強力FW」ということですごく有名でしたので、近鉄で試合に出るには「スクラムが強くなる」この一言に尽きたんですよ。だからスクラムにフォーカスして頑張った記憶があります。PRの力をつけられたのは、その先輩方を見てきたからだと思います。
――2004年には日本A代表のメンバーにも選ばれています
最後にNZU(ニュージーランド学生代表)と対戦してボッコボコにされた記憶があります。あとは当時の一番の印象に残っているのは薫田監督(当時)ですね。この人はすごいなと。こんな指導者は初めて見たと思いました。一言で言うと、自分のやろうとしていることに対して全くブレないです。薫田監督も納得がいくまで練習をするタイプなので、選手としてはたまらないですけど、明確な戦術を伝えてくれるので、その姿勢には感心しましたね。今の林雅人コーチも、同じように明確に選手たちに伝えてくれるので選手としては非常にやりやすいです。
――近鉄ライナーズからNECグリーンロケッツに移籍をします。その経緯は?
近鉄はPRとしてはとても充実しましたが、ラグビー的な部分に関しては納得のいくことはあまり無かったんですね、だから辞めました。日本A代表の時に周りの選手に色々聞いてみると、全然僕らとは違う練習やビジョンを持ってやっているわけですね。自分もそういったビジョンを持ったチームでプレーをしたくて、移籍することを決めました。
――移籍したNECグリーンロケッツではどんな経験をしましたか?
当時のNECには日本を代表する選手が多くいて、とにかく刺激されっぱなしでした。凄くストイックにこだわるチームで、意識もとても高かったです。僕はスクラムには自信があったけど、それ以外の部分はあまり高いレベルではなかったんですよ。当時、今NTTドコモの久富雄一さんがいらっしゃって、僕に無いものを全部持っていたので、見て盗んで、その領域に達せられるよう努力していました。あと、やはり今ドコモの箕内拓郎さんという、当時の日本代表でキャプテンを務めていた選手もいらっしゃったので、学べることが多いんじゃないかと思って頑張りました。その時は同時に、スタメン以外の選手の悔しさも知りましたし、スタメンメンバーのメンタリティーの強さも学ぶことができました。
――NECで得たものは何でしょうか?
「100%出し切ること」じゃないですか。ラグビーに対して常に100%取り組んで、負けている試合でも勝っている試合でも練習でやってきたことを100%出し切るその姿勢じゃないですかね。
先輩がしてくれたように、若手に強い背中を見せていきたい。
――そして昨年シャイニングアークスに入団しました。斉藤選手が得た経験や知識を今のチームのメンバーにどう伝えていきますか?
ベテランとしてチームに入っていくということは、もう完成された選手が入ってくるという意味なので、チームとして求めてくるレベルも違ってきます。僕は色々な先輩方に見せてもらった背中で成長できたので、今度はこのチームにいる若い経験のない選手達が、いつか30歳を越えた時に、「あの先輩は良い背中を見せてくれたな」と思われるような先輩になれたらいいなとは思いますけどね。
――シャニングアークスに移籍してから特に意識してプレーしていることはありますか?
このチームの皆からは、僕が頼りにされていると感じることがありますので、スクラム一つにしても絶対に負けられないなとは思っています。僕が負けたらチームの皆に悪い影響を与えるんじゃないかとか思ったりもします。だから僕が「しんどい」とか「きつい」とか、そういった弱気な姿勢は見せられないとは思います。
――今はラグビーを楽しめていますか?
そうですね。今はボコボコに負けたりもしますが、語弊があるかもしれませんけど、それも良い経験になっているというか、楽しめています。やっぱり強いFWが、強いチ-ムを生むと思うんですよね。だから、日本一強いFWになれば、日本一強いチームになれると思うので、日本一強いFWを目指してやっていきたいと思っています。