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岡 健二 Kenji Oka

バックス・SH

小学生の時にラグビーを始めて以来、それは彼の人生にとって大きなポジションを占めるようになっていった。早い捌きで仲間を活かすプレースタイルも、どこかラグビー以外の彼のライフスタイルとも似ているのかもしれない。

岡 健二

昔から、仲間を活かすプレーが好きだった。

――写真を拝見しましたが、子どもの頃からラグビーをやっていたんですね。きっかけは何だったのでしょうか?

そうですね。僕は小学校2年からラグビーを始めました。最初は、兄もラグビースクールに入っていたのですけど、兄は完全に親父の強制力です。やらされている感が僕にも伝わってきて、僕は絶対にやりたくないと言っていました。親父がラグビーを好きで大学の時にちょっとラグビーをしていたみたいです。親父は長谷工コーポレーションという会社のラグビー部のコーチか監督みたいな役職にも就いていました。週1日のラグビースクールでしたが、そんな兄を見ていたから、「ラグビーやれ」と言われても、僕は頑なにやらなかったです。休みの日には、親父のラグビーの試合や練習によく遊びに連れていかれるのですけど、その時にいらっしゃった部員さんは僕にしてみたら大きなお兄さんですが、よく遊んでもらって、とても良くしていただきました。その時にたまたま専修大学時代の村田亙さん(元日本代表SH・現専修大学ラグビー部監督)がいらっしゃって、一緒に遊んでもらいました。そこで軽く褒められたのですね。それで調子に乗って翌日か翌週に「俺も兄貴と一緒のラグビースクール行く」って言い出したらしくて。そこから始まったらしいです。それまではインドア派の子どもでした。

――当時のお兄ちゃんと違って、楽しんでラグビーをしていたんですね。

近所にラグビースクールはなくて、世田谷ラグビースクールまで通っていたんです。電車とバスに乗って、多摩川の河川敷まで行っていました。ラグビースクールは雨が降ると中止になってしまいますが、雨の日に練習があるかないかの連絡が入ってくる前に出発しないと練習時間に間に合わないんですね。それで兄貴が「今日はないんじゃない?」って言っても「いや、まだ分からない」って言って僕は一人で河川敷まで行っちゃって。でも結局「(今日は)練習ない」って日もあって(笑)。だからそこまでラグビーをしたくて、ハマっていたんだと思いますね。

――何故ラグビーに熱中したのでしょうか?

コーチがすごくいい人だったんです。おだててくれると言うか、けっこう個別に教えていただいて「じゃあ、そのプレー、もう1回やってみようか」って言われて上手くいくと自分でも面白さが芽生えてきて、どんどん開拓できる。そういうところだと思いますね。
今でもすごくイメージに残っているのが、密集近くとかで、自分が最後までボールを持って行くんじゃなくて、ディフェンスをこちらに引き付けておいて「今パスしたらすげえいいプレーになる!」みたいな感じのところを教えてもらった記憶です。

――中学は、国学院久我山中学に進学します。勉強もできないと入れない学校ですよね。

一応、中学受験をして、6年生の時だけすごく勉強していました。だから中1から中2の最初の頃までは、めっちゃ頭良かったです。そこから右肩下がりでしたけど(笑)。久我山に入ったのはラグビーをしたいからという理由が大きくありましたね。

――ラグビースクールと中学の部活でのプレーする意識に、何か違いはありましたか?

久我山では中学から始める人のほうが多かったので、基本的なことを教える側に回ったりしました。スクールからやっている選手は、「俺、こんなの好き」とか、だいたいどんなものか分かっていたり、自分でもこうしたいと言ってくるんですけど、中学からラグビーを始めた選手だと「こいつは何がいいんだろう?」みたいなことを自分も先生も見ながら考えたりしていました。

――当時からそういう視点でチームメイトを見ていたのですね。

言葉は悪いですが、選手を「使う」ということが、ポジション的にも合っていますし、好きだったので「こうしたらもっとこいつは活きる」みたいなことを考えるのは好きでした。

――当時の久我山高校は花園に出場していましたね。

全学年で出場できました。1年生の時は、何人かだけ花園に連れて行ってもらえるというので、試合メンバーにはならなかったけど連れて行ってもらいました。2、3年の時は出場しましたね。花園で試合を続けていくうちに、関西だとスポーツ新聞に大きく出たりするし、東京でも東京代表が勝ったりするとけっこう載ったりして、「けっこう皆、観てくれているんだな」と思いました。もっと活躍して、もっと有名になったらいいなと思っていました。目立ちたがり屋だったので。僕の代はけっこうそういう奴が多くて。

――高校3年、最後の花園はどうでしたか。

最悪でしたね。一回戦はシードだったのですが、僕らにとっては初戦で敗退だったんですよ。2回戦敗退。相手は東福岡でした。僕らの代は前評判もけっこう良くて、高校ジャパン候補合宿に参加している人数も全国で一番多いくらいだったんです。6人ぐらい行っていたのに「なんでだ」と。2年生の時は準決勝敗退だったので「今年こそは」という感じで臨んでいたのですけど、どこかナメていたんだと思いますね。

――その時のグラウンドの記憶はありますか?

こんなに泣くんだなって思いました。予想してないタイミングで終わっちゃったので。これが最後の試合だったんだと思ってきたら、とても泣けてきちゃって。それまで僕はあんまり泣くことなかったけど、これで仲のいい皆とはもうできなくなっちゃうんだと思ったら、自分でも予想以上に泣きました。

――大学はどこに行きたいと思っていましたか?

テレビを観ていて、当時は早稲田、明治が強かったので、どちらかに行きたいとずっと思っていました。当時は、早稲田のスクラムハーフはパスが上手いし速くて、どんどんパスを捌いていくイメージでした。明治のほうは自由と言うか、いろんな面白いことやトリッキーなこともやっていた、というイメージで僕の目には映っていたので、どちらかと言ったら明治かなって、上から目線で見ていましたね(笑)。

――しかし大学は慶応大学に進学します。それは何故でしょうか?

僕が高3の時に、慶応も100周年に向けてけっこう力を入れていて強くなっていて、テレビでもよく観るようになりました。その時に慶応も強いんだなと思いはじめました。明治は先輩も何人か行っていましたが、高校生にはいろんな情報が錯綜していて「明治はマジ、キツい」みたいな話もけっこう聞いていて、ちょっと迷っていた頃に、慶応も強くて型に嵌っていないと言うか、新しく僕の目に入ってきたチームだったので魅力的に思いました。

――大学時代のベストゲームは?

自分本位で言うと、僕が一番目立ったのは2年の明治戦ですね(笑)。けっこうシーソーゲームで、僕が1年生の時の4年生は有名な方が多かったのですが、ごそっといなくなってしまって、慶応はどうなるんだろうと言われていました。春もぜんぜん勝てなくて、苦しい時期だったけど、自分では大学で1年経験して、色々分かってきていて調子が良かったんです。シーズンに入ったらチームも調子が良くて。それで当時強かった明治との対戦が一つの山で、そんな中、臨んだ試合で僕の良さを出せました。ポンポン捌くところは捌いて、自分で行くところは行って、シーソーゲームだったのですが、残り10分ぐらいのところで8点差(1トライ1ゴールでは追い付けない)に拡げるトライを僕が決めたので、これは目立ったなと思いましたね(笑)。

――大学卒業後はヤマハ発動機ジュビロに入団します。

いくつかのチームからもお声がけをいただいて、加えて、自分が興味のあったチームにも話を通していただいて、チームの方とお話し合いをしましょうということになりました。小学校からやり始めてずっと東京にいる中で、いくつかのチームを見ていて「トップリーグでやりたい」という気持ちがまず出てきて、大学と社会人とではまったく別世界というイメージを持っていたので、どうせやるなら全く違う土地でやるのも楽しそうだなと。自分のことをあまり知らないところに行ってラグビーをもう1回やってみて、どこまで行けるのだろうなという気持ちもあって、地方に行ってみようかなという思いがありましたね。当時、村田さんもヤマハにいて、あれだけ良くしていただいたお兄ちゃんに、一緒に練習していろいろまた教えてもらう、盗める場ができるのはすごいと思うし、楽しいし、素晴らしいことだろうなという気持ちもありました。

――SHとしてのスタイルは変わりましたか?

僕は社会人になって、そんなに自分でボールを持って前に出ることはなくなりましたね。僕が通用するところもあれば、通用しない部分もある。自分が行ってフィニッシュを決められないのであれば、僕がラグビーを始めた当初のようにもっと人を活かすプレースタイルをやろうと。自分が持って相手のディフェンスを崩すのではなくて、自分で持っていかなくても相手のディフェンスを崩せるということを思い出して、ヤマハに入って何年か経つうちに、そういうプレーに変わってきたと思っています。そこが今では売りになっているとも思っています。

ラグビーの無い人生はまだ考えられないからこそ、今精一杯プレーする。

――2010年度にヤマハからShiningArcsへ移籍しました。当時はどのような気持ちでいましたか?

移籍した最初の年は、今思えば、僕は何をチームに与えられるのか考えていて、正直けっこう迷っていました。その迷いがプレーにも出ていたと自分では思います。それに途中で怪我もしてしまって、せっかく声をかけていただいて移籍したのに、という焦りもありました。大学までのようにガンガン行ったほうがいいのか、それともヤマハの時に売りにしていた速い球出しや、テンポづくりを売っていったほうがいいのか、その辺りが中途半端になっていました。でも当時は中途半端になっていることよりも「なんで上手くいかないんだろう?」ってことばかり考えてしまって、貢献できず、力を出せませんでした。このチームは個々の力が高い選手が多かったので、ここは自分がガンガン行くよりも、仲間を活かすプレーをしたほうが、チームにとってプラスになると思って、それに特化しました。そうすることで、昨シーズンは道が開けたと実感しました。チームにもそれがフィットするようになってきたと思います。

――シーズンを終えて、岡選手の課題は何か出てきましたか?

昨シーズンの後半になって、自分も出場メンバーになってきました。自分が売りにしてやろうと思っていたことが出せた試合もいくつかあったのですが、これからは、それをもっと追求していく。そのためにチームメイトに要求していくこともあるし、要求するということは自分もそれなりのスキルや納得させるプレーをしないといけない。あとは出場時間をもっと貰うためにも、チームを見回した時に、「こういうやり方もある」という提案もしていかないといけないかなと、自分のポジションと言うか、自分の年齢もそうですけど、そういうことを考えました。

――自分の意見はどのようにチームに伝えていますか?

練習の合間に、選手同士の短いディスカッションがあるのですが、その時はほぼ常に発言するようにしています。去年の中盤までは下のBチームに入って練習もやっていましたが、言える選手というのは限られてきちゃうし。それに、「もっとこういうことをやりたいんだけど」と考えているのに、それを言えない選手がまだいると思うんです。そこは僕から発言をしてあげて「こういうこと、どう思った?」「こうしたほうがいいじゃない?」とか。あとは全体を見て「こういうことができているから、これは続けていこう」とか言ってあげる。具体的に「動く」とか「発言する」とかのキッカケを与えられるように意識はしています。それはもちろんAチームの練習に入ってもそうだし。わがままじゃないですけど、言いたいことを言った上でやらないと、練習でも上手くいかない雰囲気が続いてしまうこともあるし。「それだったら、こういうことやろうよ」と自分から発言することを意識しています。さらに、それによって誰かの意見を聞けるキッカケになればいいなと意識しています。

――岡選手にとってラグビーとは何ですか?

大学から社会人になる時も思ったのですが、本当にラグビーが無い生活が考えられない。無くなっちゃったら、どうなるのかなとか。今はやれていますが、自分がやりたいからと言ってずっと続けられるわけでもないですし、体力の衰えとかいろいろあると思うのですけれど、選手でいられる間はしっかりやらないといけないなと思っていますし。それと、ShiningArcsを応援してくれている方々は熱烈だなとすごく思って。ヤマハの時も熱い応援をもらっていましたが、ShiningArcsに入ってからは、より一層「職場の方のために頑張ろう」と本当で思うようになりました。特に一昨年の僕が入った年は試合に出られなかったのですが、でも毎回応援に来てくれて、声もかけてくれるし。そういう職場環境も含めて、ラグビーは無くてはならないし、ライフスタイルの大きな1つになっている。ラグビーがあることによって、ラグビー以外の考え方も変わるようになってきたし、人間関係も広がりました。今の自分が在るには、無くてはならないものだと思いますね。