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溝口 裕哉 Yuya Mizoguchi

バックス・CTB

名門・明治大学のキャプテンまで務めながら、物腰はいたって穏やかな溝口選手。しかし、チームの中でもっと自分の存在感を出していこうと発信を心掛けている。中学や大学では熱血タイプの指導者に師事した彼が、理論派の林監督に出会って、どこまで才能を花開かせていくのか、今後が楽しみだ。

溝口 裕哉

「これから」のチームをあえて選んできたラグビー人生

――ラグビーを始めたのは何歳のときですか?

13歳、中学1年生ですね。僕は3人兄弟で、一番上の兄がラグビーをやっていたので、その影響です。僕の通っていた中学(日向市立富島中学校)には、珍しくラグビー部があって、しかもわりと強い学校でした。知っていて入学したわけじゃなく、後から知ったんですけど。

中学は12人制のジュニア・ラグビーですが、僕ら1年生6人が入ったとき、先輩は3年生ばかり10人だけでした。だから大会には素人(1年生)を2人入れて出場して、それでも九州大会で3位になりました。コーチの鍛え方がよかったんだと思います。

だけど、先輩が引退すると部は6人になってしまって。先輩に教わったり、自分たちで考えて、秋ごろまで毎日ひたすらランパスばかりやってました。秋の大会には他校との合同チームで出場して1回戦負け。そのころから、本格的にコーチの指導を受けるようになりました。僕の今があるのは、この人のおかげだと思います。

――どんなコーチでしたか?

本業は建設会社の社長で、すごく熱い方でした。今の時代はちょっと手が出ても問題になるみたいですが、その人はわりとしょっちゅう......(笑)。だけど、ラグビーに対する情熱がすごくストレートに伝わってきて。

それに、ただ厳しいばかりではなく、励ましてくれたりもしました。僕は中学生のころ貧血持ちで、医師からラグビーはやめたほうがいいと言われていたのですが、コーチが「無理をせず少しずつでいいから、続けていったらどうだ」と勧めてくれて、おかげで体調に気をつけながらラグビーを続けられました。

――中学時代のポジションは?

1年生のときは、背が低くて体重があったのでプロップをやっていて、2~3年生のときはロックに替わって、3年生の途中からセンターになりました。

――体格を買われてフォワードをやっていたのに、センターに替わることになったのはなぜですか?

「ボールの扱いがうまいから、足は遅いけど、センターやってみろ」とコーチに言われたんです。ラグビーを始める前はソフトボールをやっていて、もともと球技は得意でした。

――ラグビーは最初から楽しかったですか?

いや、最初は基礎練習ばっかりだし、楽しくないですよ。雨が降ったら体育館で少し楽な練習になるので、それを喜ぶような生徒でした(笑)。

面白くなってきたのは、中学3年生のころですかね。戦略や戦術も自分たちで考えながらやらせてもらっていたので。考えながらできるスポーツなんだとわかって、面白さに気づくようになりました。戦績もそれなりに伴っていて、2年生の夏の大会で負けた後は3年生の秋、九州大会の準決勝まで負けたことがなかったです。たしか、その間はトライも1つも取られなかったです。

――中学3年生でラグビーが面白くなって、高校進学のときにラグビーのことを考えましたか?

続けるつもりでしたが、だからといって強豪校に入ろうとは思いませんでした。「強いチームに入るよりも、弱いチームに入って自分たちで強くするほうが面白いよな」って、中学時代のチームメイトと話したりして。遠くの強豪校より地元でがんばれば、地域の活気づけにもなるかもしれないと思って、県内では高鍋高校が有名でしたが、地元の日向高校に進みました。県立の進学校で、0限から7限まで授業があって、ハードな高校生活でしたね。

――高校ではもちろん花園を目指すわけですよね。戦績は?

高校3年生の花園(全国大会)は県予選の決勝で負けてしまいました。僕は前の試合で太ももの肉離れを起こして、決勝までの1週間は練習もせず、毎日、鍼を打ってもらうような状態でした。試合当日は患部に麻酔を打って出たんですが、痛くはないけど60分ずっと太ももの感覚がなかったですね。それで悔いが残ったこともあって、大学でもラグビーを続けようと思いました。

――それで明治大学に。明治を選んだのはなぜですか?

中学3年生のときに、当時のチームメイトとテレビでオールブラックスの試合を見ました。プレーもすごいけど観客がものすごく入っていることにびっくりして「いつか、こんな大観衆の中でやれたらいいな」って言い合って。そのときのことがずっと心に残っていたんですよね。そこから、高校に上がって早明戦(ピーク時には6万人の観衆が入った)のことを知り、ここなら夢が叶うかもと思いました。当時は明治が連敗していることもあり、行くなら明治だなと。それで、明治のセレクションを受けました。

――明治のセレクションって、やっぱりすごい人数になるんでしょうね。

50~60人は来ていたと思います。後から聞いたんですが、そのうち、内々定のような状態の人が10数人ほど含まれていたみたいですね。実質、40数人から3~4人を選ぶものだったらしいです。セレクションの内容は300m走、50m走、筋力テストなど。試合形式のテストもあって、僕は高校時代、九州大会までだったので、そのとき、ほとんど初めて全国レベルの人たちとぶつかりました。そのときは「あ、通用するのかも」という感触でしたね。

――明治では1年生から試合に出られましたか?

Aチームで出ることができました。関東大学ラグビー対抗戦の1回戦から1年生がスターティングメンバー入りするのは明治では創部以来だったとかで、当時はちょっと話題にしていただきました。でも、翌年には1年生でメンバー入りする選手が3~4人出てきて、珍しいことじゃなくなったんですけど(笑)。

――ポジションはセンターですか?

センターです。中学3年生の途中でセンターになってからは、ほぼずっと。高校1年生か2年生の一時期だけ、スタンドオフもやりましたけど、そのときは自分から「やりたくない」と言いました。

――スタンドオフは性に合わなかったんですか?

センターが好きだったのもありますが、高校までラグビー未経験のチームメイトがスタンドオフでがんばって成長してきたときだったこともあって。

――センターというポジションのどんなところが魅力ですか?

一番気持ちいいのは、自分がぽっと放ったパスがウィングや走りこんできた人に渡って、その人がパーンと抜けていくときですかね。自分でがつがついくタイプではないので。パスでチャンスメイクしたりするのが楽しいです。

――明治の練習はやっぱりハードだったんでしょうか?

1年生のときはそうでもなかったです。練習量もたいしたことなかった。試合も、大学選手権には出られなかったんですね。あの年、明治はフォワードが強かったんですが、ルールが改正されてモールの引き倒しがオーケーになって、強みが生きなくなってしまったというか。そんなこともあって成績が振るわなかった年でした。

――それで吉田義人さんが"復活請負人"のような意味合いで監督に。

2年生になって吉田監督に代わって、いろんなことが大きく変わりましたね。僕らの精神的な甘えみたいなものをどんどん指摘して、私生活から正していくというやり方でした。寮が汚いのは心の乱れ、挨拶はしっかりする、とか本当に人として基本的なところから。ラグビーの練習時間は1年生のときと変わらなかったんですが、質にこだわっていけるようになった気がします。結果もまずまずで、2年生のときは大学選手権で確かベスト4でした。

――吉田監督になって、いいことづくめだったんですね。

明治にとってはそうだったかもしれませんが、僕にとってはいいことばかりとは言えないです。4年生の先輩がセンターに入って、監督から「フルバックやってみないか」と言われて、やってみたんですけど、ちょっと合わなくて。対抗戦が始まった秋口に、バックス・コーチに相談してセンターに戻してもらいました。それで結果が出たので、先輩がウィングに移ることになって、元のポジションに戻れたんです。

――では、3年生のシーズンはセンターとして本領を発揮することに?

それが、対抗戦の途中、11月に膝の皿を割って、その後は全部出られなくなってしまいました。個人的に、この年が今までで一番優勝を狙えるチームだなと感じていたので、くやしかったですね。

3年の秋はちょうど、就職活動のシーズンで、途中までは"ふつうに"就活していたんですよ。ラグビーにこだわらないで、会社員をやりながら、趣味で続けられたらそれでいいかな、と思っていました。でも、一番楽しみだった年にケガをして、日本一になれなかった。それで、やっぱりラグビーを続けて日本一を目指したいという気持ちが芽生えてきて。

――なぜ、シャイニングアークスを選んだのですか?

すでに日本一になったチームで日本一になっても面白くないなと思ったんです。高校も大学もそんなふうに選んできたので(明治も当時は低迷していた)。これから強くなるチームでやりたかった。NTT Comは当時、トップリーグ1年目で下位でしたけど、のびしろがあると思って――すみません、すごい上から目線ですよね(笑)。

でも、これからトップリーグに定着して本当に強くなっていくために有望な新人選手8人に声をかけているんだ、とスカウト担当の内山さんから説明してもらって、希望が見えたというか。2019年のワールドカップ(日本開催)のときには、代表が狙えるような、トップリーグでもいい位置にいるんじゃないかなと思えたんです。

――当時は林監督がヘッドコーチでした。どんな印象を持っていましたか?

大学で何度か対戦してきて、本当にいやなところを突いてくる人だなと思っていました(笑)。

――大学に話を戻して、4年生のときはキャプテンを務めたんですよね?

僕の代で試合に出ていた人が少なくて、試合に出る人がキャプテンをやらなくちゃいけないというようなプレッシャーを勝手に感じていたんですよね。3年生のときはそれが重くて、プレーにも影響が出たり、知恵熱なのか40度くらい熱が出たり、試合前にホテルで倒れたり。挙句に内側側副靭帯を傷めて、最後に膝の皿を割ってシーズンが終了。

でも、ケガをしたことで逆にふっきれて、自分から「僕やります」と監督に言いにいきました。明治は個性が強い集団だから、みんなを引っ張るというより、個性をうまくまとめていけたら、それでいいような気がして、それなら僕は適任かもしれないと考え直したんです。その後、4年生で話し合ったときにみんなが僕のことを推してくれて。

でも、吉田監督が「4年生がお前に頼りきりになるのが怖い」という意見で、しばらく様子を見ることになったんです。普通なら3月や4月には決まるはずのキャプテンを6月まで決めなかったんですね。結局、6月ごろに僕のケガが治ってきたタイミングで正式に就任しました。まあ、みんなをぐいぐい引っ張るタイプじゃないし、名ばかりのキャプテンでした(笑)。

――リーダーシップを取るのは苦手?

苦手です。言うこと言わないといけないのが。僕、気を遣っちゃうんで(笑)。

――4年生のとき、ラグビーの成績はどうでしたか?

対抗戦2位、選手権は2回戦敗退でした。僕らは谷間の世代で、1つ上と1つ下の学年が強かったんです。だから、キャプテンになったとき、1つ下の後輩たちに何か残してやれないかということを考えました。1つにまとまることだったり、個性を生かしていくことだったり。次の代に伝えることを意識していました。僕は高校でも大学でも、1つ下の代が良い結果を残しているんですよ。

――大学4年間で一番印象に残っている試合はどんなものですか?

うーん、難しい......1年生のときの早明戦ですかね。国立競技場で、全国放送が入って、大観衆の前で、全部初めてのことで、しかも勝てたし、それが一番心に残っています。国立競技場って少し低いところからグラウンドに上がっていくんですけど、日差しとか観客の地鳴りみたいな声とかがわあっと降り注いできて、体じゅう一気に鳥肌が立つような感じでした。

アップのとき、試合に出ない4年生が手伝ってくれたんですけど、泣いてるんですよ。タックル・ダミーを抱えて「来いよ!」って言いながら泣いてて。それで試合前なのに僕も泣いちゃって。勝ったときは、うれしいというより、ほっとしましたね。

シャイニングアークスの仲間と、いっしょに日本代表入りを目指したい。

――社会人になって大きく変わったのはどんなことですか?

戦術のところでしょうか。こういうときはこうしたほうがいい、という"正解"が場面ごとに明確になっていて、それに対してラグビーをやるというような。明治はどちらかというと「戦術より気持ちで前へ行けよ」というチームなので、戦術・戦略にこだわるようになったところが僕にとっては一番の変化ですね。僕のラグビー人生、熱い指導者が多かったので(笑)、マットさん(林監督)の指導を受けて、今までにないものを取り入れられるのは、すごくいいことだと感じています。

――1年目からトップリーグの試合に出られると思っていましたか?

「出られたらいいな」と思ってはいましたが、自分がどれくらい通用するのか、まったくわからないし、1年目は筋力や体重を増やして、先輩から盗めるものを盗めたらいいというのが正直な気持ちでした。

――それが、NEC戦でデビューを飾ることになりました。

チーム事情もあるんですけどね。故障者が出て今季はスタンドオフがチームに良夫さん(君島選手)1人になったので、僕も春からスタンドの練習をしていました。リーグが始まって、良夫さんに何かあればスタンドは徹さん(栗原選手、本来のポジションはフルバック)がやることになっていたんですが、徹さんもケガしてしまったので、リザーブにスタンドのできる選手を入れるという意味で、NEC戦は僕がリザーブに入ったんです。結果的には、先発センターのアレックス(ツイランギ選手)に変わり、センターで出ることになったんですけど。

ちょっと複雑なんですよね。スタンドオフとしてリザーブに入って実際にはセンターで出たり、サントリー戦では14番で先発出場したけど動きはセンターだったり。

――溝口選手がやりたいポジションは?

センターです。12番か13番。一般的には12番がつなぎで、13番が突破というチームが多いですが、うちは12番と13番が逆の感じになっていますよね。だから、そこはどっちでもいいです。一般的な12番の役割のほうが得意ではありますけど。

――トップリーグに出場した感想は?

NEC戦は緊張というより「やってやるぞ」という気持ちでやりました。ディフェンスしかチャンスがなかったんですけど、ディフェンスは通用したので、やっぱり自分の持ち味はタックルだなとそこで再認識しました。ちょっと、自信になりましたね。

サントリー戦もディフェンスはできたかなと思います。でも正直、僕はずっとライアン・ニコラスのファンだったので、「これ、いいのかな?」みたいな気持ちでした。平浩二選手がいて、隣には大悟さん(山下選手)がいて、いちラグビー・ファンとして興奮しました(笑)。

――課題は見つかりましたか?

アタックですかね。僕も大悟さんみたいに、行くときは行かないと。ディフェンスでリズムを作るのはセンターだし、アタックでもリズムを作るのはやっぱりセンターかなと僕は思うので、そのために体を当てていかなきゃいけませんね。最初のコンタクトで勝ったほうがリズムを作る。がんと当たって前に出たほうの勝ち。リズム作りというものを担えるくらいになれたらいいですね。

――チームで果たすべき役割も見えてきましたか?

課題はアタックですけど、そういう意味ではリンク役になることです。今は両翼に拓さん(友井川選手)、アレックスという、絶対的なトライ・ゲッターがいるんで、そこにいち早くボールを渡したい、そこでトライを取り切りたいです。大悟さんは自分でがつがついくので、僕は影でほいほいほいっと(笑)。

チームの中では、新人で遠慮している部分もあるかなと思うので、しっかり声を出して、発信するべきものは発信していかないといけないなと思います。上の人たちはみんな、すごく言うんですけど、中間層は寡黙にプレーする人も多いので、僕なんかが何か言って、みんなが言う雰囲気になれば。そこもリンク役ですね。上の人たちと中間層、つなげていけたらと思います。

――2年目にはこんなことをやりたいという目標は生まれましたか?

1年目は会社の研修もあったり、チームでも覚えることが多かったり、大変でしたけど、2年目はもっと存在感のある選手になりたいですね。試合もですが普段の練習から。

単純に声を出すとか、そんなことでいいと思うんです。誰かが出した声に反応するでもいい。細かいところからやって浸透させていけたらいいなと思います。意識を共有することがチームにとって大切だと思うので。

たとえば今季、ウィンドウマンス前にトヨタ自動車と対戦して1点差で負けましたけど「いい戦いができたな」と思う人と「くやしい」と思う人がいたと思うんです。気持ちがズレたままウィンドウマンスに入って後半戦が始まったことが、連敗につながったところもあると思うので、もうそんなことがないようにしたいですね。

――シャイニングアークスに入ってよかったことはありますか?

人が温かいです。選手もスタッフも。大沼さん(チーム統括/ディベロップメントコーチ)がいじられているのを見て、前の年には監督だった人をこんなふうにできちゃうんだと思って(笑)。でも、そういうチームって雰囲気がいいですよね。

――溝口選手はいじられ役ですか? 何役ですか?

傍観役です(笑)。1年目なので、そこは大人しくしておこうかなと。

――ラグビーをやっていて、一番いいことって何でしょうか?

友達じゃなくて、仲間ができること、ですね。

――中長期的な今後の目標を教えてください。

2019年のワールドカップに、できれば同期のみんなと出たいです。ちょうど30歳手前ぐらいで、ラグビー選手としてはいい時期だと思うので、中長期的にはそれが目標です。自分の役割をしっかり果たしていけば、選ばれると信じて。