選手FOCUS / IN FOCUS

栗原 大介 Daisuke Kurihara

フォワード・FL / No.8

ニューヨーク生まれ、湘南育ち、慶応ボーイのイケメン。容姿や経歴はいかにも華やかだが、考え方やラグビー観は思いのほか地道、ないし地味だったりする。仕事量でチームを支えたいという頼もしいルーキーの今後に注目したい。

栗原 大介

2度の靭帯損傷を乗り越えた慶應義塾大学時代

――ニューヨーク生まれという噂は本当ですか?

父の仕事の都合で、確かにニューヨークで生まれましたが、2歳までしかいなかったです。辻堂(神奈川県)で育ちました。ニューヨークのことは何も覚えていないですね。日本語と英語がごっちゃになってしゃべり出すのが遅い子どもだったらしいんですけど、今では日本語しか話せません(笑)。

――ラグビーは何がきっかけで始めたんですか?

これが結構、運命的なんですけど、中学のとき、拓さん(友井川選手)のお父さんに誘われたのがきっかけです。僕が中学2年のとき、教師として赴任してこられて、ラグビー部の顧問に就任なさって。僕はサッカー部だったんですが、3年生の夏、サッカー部を引退した後に「あと2カ月、ラグビーをやってみないか」と声をかけていただきました。

――それまでは、ずっとサッカーを?

10年間やっていました。小さいころって野球かサッカーか、みたいな感じだったし、周りの友達がサッカーをやっていたので。ポジションはサイドバックでした。考えてみたら、いまだにサッカー歴のほうが長いんですよね(笑)。

――たった2カ月のラグビー体験。どんなものだったんでしょうか?

やってみたら面白かったんですよ。難しいことは言われなくて「とにかくボールを持ったら走れ」ってシンプルにそれだけだったので。今思うと、よくあれでグラウンドに立っていたなと思いますけど、戦術どころかルールさえまともに覚えてなくて、ジャッカルも知らなかったぐらいでした(笑)。

――サッカーよりラグビーのほうが楽しかったですか?

サッカーでは僕はファウルの多い選手だったんです。体を当てすぎちゃって。でも、ラグビーでは体を積極的にぶつけても反則にならないし、むしろ「どんどんやれ」と言ってもらえるんですよね。もともとラグビーのほうに向いていたのかもしれません。体重は今より30kgぐらい軽かったんですけど、身長は中学3年生で180cmあって、今と変わらないぐらいだったので、体格も中学生としては恵まれていたと思いますね。ロックをやっていました。

――では、2カ月だけでも活躍できた?

中学3年生の12月ごろに、ラグビー・スクールの選抜と中学の選抜が対戦する試合で、中学校のほうの神奈川県選抜に選んでもらいました。それで、いろんな高校からお誘いをいただいて。慶應高校からも声がかかって、喜んでAO入試を受けたんですが、落ちてしまいました(笑)。

――それで、湘南高校に。県立の進学校ですよね?

慶應の話が出る前から、もともと志望していた高校です。進学校で、ラグビー部もあって。ただ、ラグビー部は強くはなかったですね。県大会の1回戦や2回戦で負けるレベルのチームでした。僕自身、このときはまだ強豪校にこだわるような気持ちもなかったですね。

――それから慶應大学に進むまでに、ラグビーに本気になっていったのだと想像しますが、高校でのラグビーってどんなものでしたか?

コーチングがすごく整備されていたわけではないので、高校3年間ではラグビーの本質のところまでは迫れなかった気がします。ここをこう崩してこういく、みたいなことがわかっていなくて。サイン作りも先輩がやってくれて、僕は3年生になってキャプテンになっても、それをちょっと組み替えるくらいのことしかやりませんでした。基本的に「ボールを持ったら走る」のままでしたね。高校ではNo.8をやっていて、だから、このころのラグビーの面白さって、ディフェンスを突破するとか相手を振り切って走るとか、単純なことでした。戦績は県大会ベスト8で花園に届きませんでしたが、楽しかったです。

――高校生活はいかがでしたか?

校則がゆるくて、楽しかったですね。私服で登校してもよかったし。体育祭なんか、すごく盛り上がって、みんな、そのときは髪をドレッドにしたりレインボーにしたりしていましたね。僕は銀髪にしましたけど、そのことで注意を受けるようなこともありませんでした。楽しい高校生活でしたよ(笑)。成績はまんなかより下でしたけど。

――大学に入っても本格的にラグビーを続けようと思ったのは、何がきっかけだったんですか?

3年生のとき、国体の代表に選んでいただいて、僕はベンチだったんですが、神奈川代表が初優勝したんです。全国レベルの大会なんて、当時の僕からしたらすごく大きな舞台で、だけど、試合に出てプレーしたとき、自分では「結構やれているな」という感覚があったんですよ。それで、今のまま終わりたくない、もっとチャレンジしたい、と思うようになりました。

――それで慶應大学を選んだんですね。

高校時代、慶應高校と対戦する機会が多くて、僕のプレーをよく見ていただいていたので、慶應大学にはお誘いをいただきました。それで、またAO入試を受けて、2回チャンスがあったんですけど、1回目は落ちて2回目でなんとかぎりぎり合格しました(笑)。

慶應大学のAO入試って体育だけじゃないんですよね。自分で考えたビジネスについてプレゼンとかやらなくちゃいけないんですよ。僕は「エコを目指した金融商材」というテーマでプレゼンしました(笑)。CO2をより削減できている企業に対して税率を下げるとか、そんな話です。

――湘南高校と慶應大学では、環境ががらりと変わったんじゃないですか?

まったく違いましたね。部員が150人いるんですよ。簡単にいえばスタメンで出るための倍率が10倍じゃないですか。高校では15人しかいなくて、ケガしたら途中で試合が終わるような環境だったから、びっくりしました。

フィットネスも毎日やっていて、春は10km、3km、10km、3kmと走ってはタイムを取って。3年までは監督が林さんだったので、よく走りました。

――1年目から活躍できたんでしょうか?

1年目はなんとか食らいついてCチームまで上がったんですが、6月ごろ、いったんDチームに落ちたときの試合で前十字靭帯を切ってしまって、そのシーズンはもうプレーできなくなりました。ただ、このときはチャレンジしている途中だったので、逆に「やってやろう」という気持ちになりました。早く復帰してAチームまで上がりたくて「リハビリ期間に体を作ってやる!」ぐらいの気持ちでした。

――2年生になって復帰してからは思うようにプレーできましたか?

2年生のシーズン頭(春)から復帰できて、そこからは案外早かったです。チームでケガ人が出たこともあって、6月にはAチームで初出場できました。No.8で出たんですけど、同じポジションに小澤さん(現在はサントリーサンゴリアス所属、小澤直輝選手)がいたので、夏前に林監督からロックをやってみないかと言われて、本格的にロックというポジションに取り組み始めました。

――ポジションの変更に抵抗はありませんでしたか?

「(お前を)出したい気持ちがあるから、ロックをやってみないか」というお話でしたし、試合に出たかったので、ポジションはなんでもよかったです。実際、ロックになってすぐにAチームで試合に出させてもらえました。

ちょうど夏前にコンバートして、夏合宿でスクラムをめちゃくちゃ組まされて、大変な思いはしましたけど(笑)。ユニット練習になると、スクラムを3時間組んだり。頬がずりずり擦れて真っ赤になってシャワーも浴びられないぐらいでしたね。

――この年の戦績と印象に残った試合は?

この年は関東大学ラグビー対抗戦で2位でした。印象に残っているのは初戦の筑波大との試合。それまで慶応は2年続けてシーズン最初の試合に負けていたので、この試合にかなりフォーカスしていました。自分にとっても対抗戦初めての試合で、印象深いですね。最初から出て後半30分に交代したんですが、もう走れない状態になっていて、無我夢中だったんだと後から気がついたような試合でした。

僕のチャージからトライが生まれて、こういう細かいところからプレッシャーをかけてチャンスが作れるんだと知らされたような、その後のラグビー観にも影響を及ぼすような試合でもありました。

でも、大学選手権の2回戦で法政大と当たったとき、また前十字靭帯を切ってしまって、それでシーズンが終わってしまいました。

――せっかくAチームでポジションをつかんで、また同じところのケガ。このときの気持ちは?

このときの気持ち......結構、変な感じでしたよ。その試合はベンチに下がって最後まで見ていて、勝った瞬間に涙があふれてきて。かなり賭けていたんですよね、たぶん。勝ったことはよかったけど、うれしいとばかり思えるわけじゃないし、なんともいえない気持ちでした。ケガは結局、3年生の8月の半ばまでかかりましたね。

――復帰戦のことは覚えていますか?

シーズンに合わせて、だいぶ無理に復帰したので、練習中も試合中もずっと膝が痛くて。今も尾を引いているくらいです。今思えば、もっと時間をかけたほうがよかったんでしょうけど、そのときは、今復帰しないと間に合わないと思ったので。

でも、シーズンを通して試合には出続けることができました。対抗戦は早慶明が勝率で並んで僕たちは得失点差で2位。選手権は2回戦の帝京大との試合でフォワードがぼこぼこにやられて負けました。対抗戦では展開ラグビーで帝京に20点差ぐらいつけて勝ったんですが、今度は逆に。僕はロックとして出ていましたが、スクラムで押されるがまま何もできなかったですね。苦い思い出です。

――4年生になって、バイス・キャプテンに。

その前の2年が悔しかったので、このチームで勝ちたい、そのためにキャプテンでもなんでもやってチームを優勝に導きたい、という気持ちでした。4年になって監督が変わったので、最初は大変でした。新監督もコーチもプロじゃないので「これだ!」って確実に示せるものはないんですよ。だから、絶対的な指導者である林監督に頼りきっていた3年間とはまた違った経験をすることになりました。ラグビーについて、いろいろ自分で考えた1年間でしたね。林監督の指導はもちろんすばらしいですが、ずっと頼りきったままじゃなく、この1年があって、自分で考える癖がついたことは今でも財産になっていると思います。

――4年生のときの戦績はどうでしたか?

対抗戦5位。選手権2回戦敗退。結果としてはよくなくて、全然満足はしていないですが、選手権の1回戦でリーグ優勝の流通経済大と対戦して、復活のきざしを見せられたかなと思うので、それはよかったです。個人的にはこの年のベスト・ゲームだったなと思います。

――4年生のときのポジションはロック?

大学時代はそれまでずっとロックだったんですが、春にコーチ陣から「No.8をやってみようよ」と言われました。でも僕はロックにもう愛着がありましたし、ランニング・ラグビーを目指していたので、僕がロックに入って機動力を上げたかったんですね。結局、対抗戦はロックに戻してもらいました。ただ、選手権はNo.8で、結構右往左往していましたね。

どこにでも顔を出す、「仕事量」の選手でありたい

――大学卒業後の進路にシャイニングアークスを選んだ理由は?

選手権2回戦で負けたことで、やっぱりラグビーをもう一度、本気でやりたくて。NTT Comは仕事とラグビーを両立できるところ、社員の皆さんがラグビーに興味を持って応援してくれるところがいいなと思いました。ほかにも声をかけていただいた会社はありましたが、会社としてしっかりしていて、かつラグビーに力を入れているところはNTT Comだと思ったので。

――社会人ラグビーの世界へ飛び込んで、どんなところに大学ラグビーとの違いを感じましたか?

対戦相手の接点の強さ、体の大きさですかね。特に外国人選手は全然違います。ブレイクダウンのところでプレッシャーもすごいですね。ステイブルなラックを作っていても、ちょっと気を抜いたら壊されてしまうような。でも次のラックへのムーブメントも早くしないといけないし。一つ一つのラックにかける集中力が全然違います。

――トップリーグは開幕戦(東芝戦)でいきなりスタメンでした。

大学4年のときに東芝と合同練習をしたときに練習でぐちゃぐちゃにされたんですよ。人の圧力をあんなに感じたのは初めてで、トップリーグに進むことにしたのは間違いだったかもしれないと思いましたね。こんな人たちとラグビーしたくないと思いました(笑)。

それで、トップリーグの初戦が東芝じゃないですか。どうしようと思って。フタを開けたら開始30秒で脳震盪を起こして頭から流血。でも、あれでむしろ吹っ切れましたね。あのとき、入りもよかったんですよ。流血までの最初の30秒でタックル3回しましたから。

流血から10分ぐらいしてグラウンドに戻って、また10分ぐらいすると血が出てきたので外に出て、また戻って、結局後半10分ぐらいまでプレーしたんですが、自分でいい感覚をつかみつつ、もうろうとしつつで、もはやカオスでした。てんやわんやなトップリーグ・デビューだったんですけど、試合が終わって「今日でいい感覚つかめたな」とは思いましたね。

――ルーキー・イヤーのトップリーグはフランカー(6番)またはNo.8で出場しています。自分のウリは何ですか?

反応とか動き出しの速さ(早さ)になると思います。目立たないんですけど、玄人好みのプレーをしているんじゃないかと思います。素人が見ていても僕を見つけられるような、こんなところにも顔を出すのかというようなプレー。「お、いいね、あいつ」みたいな(笑)。

――大学時代に愛着のあったロックのポジションに未練はないですか?

社会人でロックをやるにはサイズが足りないですよね。フランカーでぎりぎり。No.8でも足りないんですけどね。でも、放っておいたら僕はアタックに消極的になってしまうので、No.8という嫌でもアタックしないといけないポジションで、初年度にトップリーグでアタックする感覚を養えているのはいいことなのかなと思います。

――6番で出るときは、8番で出るときとまた違った感覚になりますか?

6番のときはプレゼンス、仕事量にフォーカスしていますね。サントリー戦ではブレイクダウンで仕掛けるということに重きを置いてやっていたので、そこはいい形で結果が出せたかなと思います。

――6番で出たり8番で出たりすることをどう捉えていますか?

いいことですよ。仕事量の感覚を持っていること、アタックの感覚を持っていること。両方経験できているので。僕はそのへんの感覚が不器用で、ひとつのことをやり始めたら、その感覚に特化しすぎてほかのことはどんどんレベルが下がってしまうと思うんです。だから、二つやらなくちゃいけない状況は自分にプラスだと思いますね。

――もし、どちらかを極めるとしたら、どちらを極めたいですか?

仕事量のほうですかね。ずっとフォーカスして、やってきたところなので。

――ラグビーをしていて、一番気持ちいいプレーはどんなプレーですか?

うーん、仕事量にフォーカスして、こつこつやっているので、なんとも言えないですけど。ブレイクダウンで入っていって早く仕掛けることができて、相手を越えられて、越えた後ろで仲間がボールを取ってくれて、ターンオーバーできたとき。これが最近イイですね、感覚的にかなり。

――縁の下の力持ちになりたいタイプ?

どうなんですかね。インターセプトとかも気持ちいいですよ、やっぱり。

――栗原選手が考える、優れた6番とは?

目指すべきところはリッチー・マコウとかジョージ・スミスとか。僕の仕事量のところを最大限強化していけばああなると思うんですけど、逆にすごく目立つんですよね。チームの先輩では小林訓也さんもすごくお手本になる選手です。体が強いし、仕掛けるのも早いし。いろいろ見て盗もうと思っています。

――1年目の今、何にフォーカスして練習していますか?

初年度ということもあって、全体についていくことで精一杯だったりします。とりあえず全力でやっているというのが現状です。

――練習で、大学と大きく違うのはどんなところですか?

走るのは大学時代も僕は林監督の下で走らされましたから慣れているんですが、声のかけ方とか、大学時代とはまた違うなと思います。木曽さんや大悟さん(山下選手)が「今はこういう練習をしているんだから、こういうところにフォーカスしないとダメでしょ」と、本来は一番見えているはずだけど練習の中で見えなくなりがちなところを再認識させてくれるので。「わかっているつもりになっていないか?」と問いかけられている感じで、"練習のための練習"にしないというか、練習の質を高くしていけるような気がします。

――今季、故障以外では試合に出ていますよね? 出て当然という意識になってきましたか?

6節から8節は肉離れだったんですが、9節は単純に出られなかったんです。「出て当然」ではなくて今は「出て当然でなきゃいけない」という意識ですね。「当然」であるだけのものがまだないんで。たとえば(同じポジションの)山下弘資選手には突出したアタック力があって、そこを欲したときに僕と比べたらずっと上なので。

――トップリーグで通用していると感じるところと、課題だと思うところを教えてください。

周りからはディフェンスを褒めてもらうことが多いですが、僕としては、最後まで運動量が落ちないところかなと思っています。だから今難しいのは、運動量を落とさずに体重を増やすこと。今、僕の体重は97~98kgで、No.8としては100kgは欲しいところなんですが、走れなくなってはいけないし。だから、時間をかけて増やしていこうと思っています。

――1年目のシーズンも終盤に近づいてきましたが、2年目に強化したいポイントは?

アタック力だったり、武器を磨くという意味ではブレイクダウンだったりですね。アタックでは、オプションを持って走れるプレーヤーになりたいです。ボールを持ったときに、ただ突っ込むだけでなく、時にはパスができたり。「こいつがボールを持つとパスもあるから外も見なくちゃ」とディフェンスに思わせるような選手になれば、アタックのチャンスも広がると思うので。

あとは、早い仕掛けのタックル。これは重要課題ですね。タックルのタイミングが僕はまだ遅いので。フランカーに求められるタックルってもっと前で止めるタックルだと思うんですよ。相手がステップを切っている、その間合いに一気に入り込むようなスキルをもっと上げたいなと思います。そこはスキルフルなところなので、これからですね。

――中長期的な今後の目標を聞かせてください。

うーん、僕は短期的に見がちなんで難しいですけど、ジャパンのメンバーに選ばれることですかね。日本代表のヘッドコーチがエディー・ジョーンズになって、求められるラグビー像がこれまでとは変わったと思うんですよ。以前はサイズ感がないと絶対に入れなかったと思うんですが、エディーさんになって、プレゼンス量や仕事量を見てくれるようになったと思います。僕のサイズでもぎりぎり入れるんじゃないかっていう芽が出てきたと思っているので、さっき言ったようなことをどんどん強化して、本格的に代表入りを目指したいですね。