選手FOCUS / IN FOCUS

小野 寛智 Hirotomo Ono

バックス・SO / CTB / WTB / FB

バックスの全ポジションをやってのける小野選手。アタック中のキックの使い方などに強みを持ち、今後はランプレーも武器にしたい考え。トップリーグ出場だけでなく、その先にある国際舞台も目指します。

小野寛智選手写真

高校・大学と名将の下で実力を養う

――ラグビーを始めたきっかけを教えてください。

もともと父がラグビーをやっていて、一番上の兄も高校からラグビーを始めたんです。そのとき僕は小学6年生で、兄がラグビーをやっているのを見ていたら、自分もやってみたくなったので父に言いました。父は相当うれしかったみたいで、すぐにスパイクやジャージとか揃えてくれて、さっそく始めることになりました。

――ラグビーを始める前は、何かスポーツをしていたのですか?

子供の頃はいつも山や川で遊んでいました。スポーツは野球ですね。メンバーは試合でも9人ぎりぎりのことが多かったです。小学生の頃は足が速かったので、僕のポジションは外野だったんですけど、人が足りなくて最後はキャッチャーをやっていました。

――ラグビーは、地元のスクールか何かで始めたのですか?

地元の大分県佐伯市から2つ隣の町になるんですが、臼杵市にラグビースクールがあったので、電車で40分ぐらいかけて通っていました。だいたい一人で通っていたので、初めて電車にも一人で乗って、新しい世界を知った感じがしました。

――ラグビーを始めてみて、どんな感想を持ちましたか?

ラグビーって退屈な時間がないと思いました。ボールを触っていなくても、試合中は常にやることがあって、見せ場も出てくるので。入って1カ月もしないうちに試合に出ることになって、ルールが分からないままやっていましたけど、楽しかったです。

――小学生のラグビーって、ポジションはどうなっているのですか?

小学生のラグビーは9人制が基本で、ポジションの考え方は地域によって違ったりもするんですが、僕はプッターでした。ボールインをしてバックスのラインに入っていくポジションで、ラインアウトのスローワーもやりました。

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――中学に上がると、学校のラグビー部に?

学校にはラグビー部がなかったので、今度は電車で1時間半かけて、大分市内の「ぶんごヤングラガーズ」というスクールに通いました。元いたスクールには中学生が少なくて、単独ではチームが組めなかったので。大分全体でもスクールが少なくて、2年生までは、県内に2チームしかなくエントリーすれば九州大会に出られる状況でしたね。

――1時間半かけて通っていたら、学校では部活はできないですよね?

ラグビースクールは週末だけですし、学校が部活必須の方針だったので、陸上部に入っていました。中学3年生のとき、走り幅跳びで県大会に出て、気付けば優勝して、九州大会は5位でした。走り幅跳びはやればやっただけ記録が伸びるところが楽しかったです。

――ぶんごヤングラガーズではどんな思い出がありますか?

中学3年生時には、県で1位になって九州大会に出ようとみんなで言っていて、実際、県大会決勝に進みました。決勝では前半良かったけど、後半に流れを引き寄せられなくて準優勝でしたが、九州大会にも出られたし、自分たちらしいプレーもでたので、いい思い出になっています。

――中学時代の12人制ラグビーでは、ポジションはどこを?

その頃からバックスの全ポジションをやっていました。さすがに、スローワーをやることはなくなりましたけど(笑)。

――この頃、ラグビーに感じる楽しさは、少し変わってきましたか?

中学生になると、海外や日本のトップクラスの試合映像を見て、かっこいいと思ったプレーをすぐマネしたりするようになっていて、そういうのも楽しかったです。栗原徹さん(シャイニングアークス現スキルコーチ)のマネもしていました(笑)。

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――高校は東福岡。ラグビーをすることが前提で進路を選んだのでしょうか?

そうですね。ラグビー部に入るつもりで、他の高校も検討しましたけど、今となってはあのときの選択は正しかったなと思います。東福岡は部員が100人ぐらいいて、みんな体が大きかったので、自分が通用するのかどうか、入部当初は期待だけじゃなくて不安もありましたけど。

――100人もいると、レギュラーになるのも大変ですね。

入学後すぐの練習試合でいいプレーができたので、春の大会は10番(SO)で出場させてもらいました。でも、そこから課題も多く見つかって、しばらくは選ばれず。2年生の頃にニュージーランドへ短期留学して、向こうはフィジカルや闘争心がすごいので、学ぶことがたくさんあったんですね。それをきっかけにプレーがよくなって、帰国後はAチームに定着するようになりました。

――東福岡高校は小野選手が2年生の時に花園(全国高校ラグビー大会)で初優勝しました。高校時代の思い出の試合といえば、やはりそれですか?

それ以上に、3年生の時の試合ですね。準々決勝で國學院大學久我山高校と当たって、後半10分頃にタックルを受けて大ケガをしました。息はできるけど声が出せないし、体に力が入らなくて。それでも、その試合は最後まで出て、試合後に病院へ行って。最初は腹筋断裂という診断でしたが、翌日もう一度診てもらって、小腸が破裂していたことが分かりました。

チームは準決勝で常翔啓光学園高校に負けてしまったのですが、その時、僕は入院中でした。試合前も後もみんなが集中治療室までお見舞いに来てくれたんですが、意識がはっきりしていなくて、よく覚えていないぐらいです。口からは水も飲めない状態が数日続いたので、最初に飲んだポカリがめちゃくちゃ美味しかったですね(笑)。

――高校生でそれほどの重大なケガをして、ラグビーが怖くなりませんでしたか?

1週間入院して、その後は家で静養しましたけど、体が治ったらまたラグビーをやるものだと当たり前に思っていました。高校生だったのもあるでしょうけど。

――それで、帝京大学へ進んでラグビーを続けるわけですね。帝京を選んだのは?

高校時代に2度、ニュージーランドへ短期留学したんですけど、そこで堀江翔太さん(パナソニック、当時はカンタベリーアカデミーに留学)と出会って、いろいろお話をうかがって、(堀江選手の出身校である)帝京大に進むことにしました。堀江さんとは英語の授業で一緒だったんです。シャイニングアークスから短期留学させてもらったときも、向こうで少し話せましたし、今でも試合会場で会うと気さくに声をかけてくださいますね。

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――帝京大のラグビー部は、どんなチームでしたか?

岩出(雅之)監督は、選手に考えさせるやり方でした。例えば、1年生まで全部員が自分たちのラグビーをしっかり理解するために、違う学年同士の3~4人グループを作って話し合いをしたり。監督は「この4年間が人生で一番いい時期になるんじゃなくて、ラグビーを終えた後もいい人生が送れるように」という考えで、いろんなことを教えてくださいました。上級生が掃除などを進んでやって、下級生はのびのびラグビーできる環境を作るとか。だから、帝京では練習には厳しさがあっても、上下関係は厳しくなくて。今でもそういう感じで帝京大学卒業の先輩と接しています(笑)

――そんな帝京大で小野選手は1年生からAチームだったのですね?

いろんなポジションができることが評価されて、リザーブに選ばれていました。僕がいれば、SHのリザーブを別に用意する必要がなくなるので。実際、僕が後半から入ってボールをさばく場面もありました。

――試合ロスタイムからの出場で強烈なタックルを決めたという、ラグビーファンのレビューを読んだことがあります。

大学2年生のときの早稲田大学との対戦ですかね。今、神戸製鋼で活躍されている井口(剛志)さんにタックルしました。いろんな分析が頭に入っていましたし、あの頃は"本能"でプレーできていたので、うまくハマりました。

――帝京大は小野選手の入学した年から全国大学ラグビー選手権で4連覇。いい思い出がたくさんあるでしょうね。

それでも、ずっと勝っていたわけではないですからね。2連覇した年は関東大学対抗戦では負けることが多く、自分たちはどうしていくべきなのか突き詰めたことが、選手権で目に見える形(優勝)に結びついたのがうれしかったです。試合中、チームが一つになっている実感がありました。

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――大学2年生のときはU-20日本代表にも選出されて。

いい経験をさせてもらいました。でも、世界と対戦するとフィジカルやスピード、自分はまだまだなんだと感じる部分がありましたね。

――輝かしい大学時代を経て、社会人ラグビーへ。

ラグビーを続けたいと思っていたところに、NTTコムから声をかけてもらって、迷わず決めました。

目指すは、トップリーグ出場と「その先」

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――シャイニングアークスでは1年目に1試合、2年目に3試合、トップリーグに出場。どんなことを感じていますか?

(3年目の)昨季は1試合も出られず、今季もまだ出られていないんですよね。それで、中学生や高校生の頃を振り返ってみると、あの頃は本能のままプレーしていたと思うんです。ラグビーは格闘技ですし、一瞬一瞬の判断が命取りになるので、あれこれ考えすぎるよりも、原点に帰って自分の本能に従ってプレーすることも大事だと感じるようになりました。これまでにスキルの部分は身に着けてきたので、あとは考えなくても個々のプレーを選択できるように、一つひとつのスキルを体に染み込ませたいですね。

――この1年で体が一回り大きくなったんじゃないですか?

入団当時は80キロぐらいで、今は86キロぐらいです。大学入学時はケガもあって70キロほどだったので、だいぶ大きくなったとは思います。この春に最大限の88キロまで上げてみて、自分にとって最適な重さが分かったので、今は86キロ程度でキープしています。

――小野選手に限らず、シャイニングアークスのバックス陣はみんな複数ポジションをこなすようになりましたね。

トップリーグは外国人枠(同時にプレーできるのは2人まで。アジア枠、特別枠は別途)が決まっているので、交代しやすいようにという意味もありますし、リース(BKコーチのヒュー・リース エドワード)には個々の選手の適性を確かめたい気持ちもあるんだと思います。

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――小野選手は中学時代からバックスの全ポジションを務めていますが、特に思い入れのあるポジションは?

ボールを持って走るプレーが好きなので、FBやWTBが楽しいですね。でも、SOとして指示をしながらチームを動かすのも面白いです。

――プレーでは、相手の裏に出すショートパントなど、インプレーでのキックの使い方が上手い印象です。

栗原コーチに教わって、それができるようになったので、後はランで仕掛けていきたいと思っています。ボールを持って走って、キックも使いながら、もっと自分を出したいというか。

――2016年の公式プロフィールでは、「ライバルと思うラグビー選手」に栗原コーチの名前を挙げていますね。

練習では2人でミニゲームをやるんですけど、なかなか勝てなくて。全然、衰えませんよね。他のコーチからも半分冗談で「復帰しろよ」と言われているみたいですし、本人も「現役のときより上手くなった」と言っています(笑)。でも、そこは超えなきゃいけませんね。

――栗原コーチからは、どこを誉められ、どんな課題を指摘されていますか?

自分の持ち味はボールを持って走ることで、コーチからもやっぱりランを誉めていただくことが多いですかね。課題は指示。先の展開を読んで瞬時に指示を出せることが大切だと言われています。昨季までは基本スキルを叩き込んでもらって、今は相手を抜くコツなどを教わっているので、少し前進しているのかなと思います。練習試合などで小さな成功を積み重ねて、コーチともいいミーティングをしながら、自分を成長させていきたいです。

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――2年目からはロブ・ペニーHC体制ですが、ロブのラグビーはどう感じていますか?

ニュージーランド式の指導で、面白いですね。例えば夏合宿ではチームビルディングとして、休みの日にミニグループに分かれて夕食作りをしたり、オリエンテーリングみたいなこともしました。街中に隠してあるヒントを探して、各グループで答えにたどりつくようなゲームですね。

ラグビーでロブがよく言うのは、スペースを見つけろということです。相手のどこにスキがあるのか、目の前の状況を瞬時に見てとることが求められています。スペースを見つけたら、場面に応じて自分で前へ出てもいいし、キックを使ってもいい。ロブは手段を自由に選ぶラグビーを教えてくれるので、僕らものびのびプレーできています。

――ラグビー選手としての目標を聞かせてください。

まず、トップリーグに出て活躍することです。だけど、それだけではなくて。大学時代、岩出監督が「Aチームで試合に出ることは目標じゃない。それを目標にしてしまうと、試合に出て何もできない」とおっしゃっていて、その言葉が最近ときどき頭に浮かぶんです。まずトップリーグですけど、2019年には日本でワールドカップが開かれるので、そこも見据えてやっていきたいです。

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