選手FOCUS / IN FOCUS

山崎 章平(崎は「山」へんに「竒」) Shohei Yamazaki

フォワード・NO.8

幼い頃からラグビーを始め、見る見る頭角を現して各世代の代表選手にも抜擢。だが、アイランダーを思わせるその屈強な体躯がもろ刃の剣にもなり、怪我と隣り合わせのラグビー人生でもあった。今シーズン限りでの引退を自ら決断した後に、話を訊いた。

とにかく練習が厳しかった高校時代、自分で考えるようになった大学時代

――どんなきっかけで、ラグビーを始めたんですか?

始めたのは本当にちっちゃい頃で、幼稚園ぐらいでした。兄がやっていたのがきっかけだったと思います。硬い土のグラウンドでラグビーをしていて「体が痛いなあ」っていうのが、ラグビーについての最初の記憶ですね。

――ポジションは最初からフォワード(FW)でした?

小学生の頃はバックス(BK)でした。体は大きい方でしたけど、周りに比べて足が速かったので。FWになったのは高校生の時です。中学ではラグビーはやってなくて。

――中学では別のスポーツを?

バスケをやっていました。センター(5番)で、バスケでもやっぱりゴリゴリに体を張る役割でしたね。バスケで県選抜にも入れてもらって。僕は兵庫生まれの千葉育ちなんで、千葉県代表として、都道府県対抗の大会で決勝まで行ったんですよ。自分は先発ではなかったですが、選手のレベルや会場の雰囲気がすごく良かったので、その時から高校でも全国大会というものに出たいと思うようになりました。

それで、流通経済大学付属柏高校に進んで、ラグビーをやることにしたんです。流経大柏は千葉では当時、ダントツに強かったし、ラグビー部の監督から勧誘していただいたので。バスケでもいくつかお話はいただいたんですが、バスケをやるには、そこまで身長が高くないし、よくファウルを取られていたので......。結構、ストレスになっていたんですよね。「ちょっと当たっただけなのに」みたいな(笑)。だから、(コンタクトが求められる)ラグビーがいいなっていうのもありました。当たるの、好きなんです。

――実際に、花園(全国高校ラグビー大会)に出場できたんですか?

3年生の時は花園でベスト8まで進みました。3年生の時は花園の前に関西遠征をやって、奈良の御所工業高校と練習試合をしたんですが、ボロボロに負けて。その後、花園が始まってベスト8の組み合わせ抽選で僕が御所(との対戦)を引いてしまって。みんなに「マジかよ」ってツッコまれました(笑)。で、花園でも負けてしまいました。

御所はボールが動くんですよね。グラウンドを広く使って、FWもBKみたいに動くし、ハンドリングも良くて。当時の流経はどちらかといえばFWはFWで近場を攻めて、BKが外に展開するスタイルでした。ちょっと対応しきれなかったですね。

3年生の時は高校日本代表に選んでもらいましたが、そこでもやっぱり、周りのスキルの高さにびっくりしました。「もっと頑張らんといかんな」と思ったりしました。

――組み合わせ抽選はキャプテンがやるんですよね?

そうですね。3年生の時はキャプテンをやっていました。僕は1年生から試合に出ていたので、その経験からですかね。でも、リーダーみたいなことをやるのは初めてで、何をすればいいのか分からなかったです。監督に「お前は口がうまくないからプレーで引っ張れ」って言われて、誰よりも体を張ること、誰よりも動くことを常に意識していました。

――ポジションはNO.8だったんですか?

1年生の時はLOでした。2学年上に兄がいて、僕が1年生の時は兄がNO.8をやっていました。兄が卒業して、NO.8を引き継いだような形です。

――練習はかなりハードだったんでしょうか?

朝は7時前には練習を始めて、帰りは終電近くまで。家に帰ったら日付が変わっていたり。グラウンドは人工芝でナイター照明もあって、設備が整っているばっかりに、遅くまで練習できちゃうんですよ(笑)。

一番キツかったのは、丸太を使ったトレーニングですね。夏合宿のたびに、丸太をかついで2時間ぐらい、山を下って登るんです。僕はたまたま高校代表の合宿と日程が重なったりして、3年間で1回だけで済みましたけど(笑)。

――それでも、ラグビーは楽しかった?

楽しかったですね。ただ、今思うと高校時代に感じていたのは、思い切り当たっていくのが面白いとか、かなり単純な楽しさでした。大学に上がると、自分で考える楽しみも出てきましたね。

――大学は筑波ですよね。どんな経緯で決まったんでしょうか。

流経大柏からはそのまま流通経済大に進む選手が多いんですけど、僕はちょっと環境を変えてみたくて、自分から筑波を志望して推薦入試を受けました。

筑波のラグビー部は当時あまり強くなかったですが、彦坂兄弟(トヨタ自動車の圭克選手、匡克選手)やうちの鶴谷(昌隆選手)、高校代表で一緒だった樺島(亮太選手、トヨタ自動車)も入ると聞いていたので、自分たちで強くしていけたらいいなと思っていました。あと、筑波は寮制じゃないんですよ。高校時代は朝晩に点呼があったので、それがないのがうれしかったです(笑)。

――生活が一変したんじゃないですか?

車で海に行ったり、夜中に夜中のノリで日光まで遊びに行ったりもしました。筑波大生は車を持っている人が多いんです。車がないと不便な立地なので、先輩から代々、車を受け継いだリしていて。あとはバイトもしましたね。レストランの厨房でハンバーグを焼いたりサラダを作ったり。僕はサイドメニューが得意でした。盛り付けるだけでしたけど(笑)。

――練習スタイルも高校時代とは変わりました?

高校時代に比べて、全体の練習時間が短くなった分、残って自主練する余裕ができました。自分はここが弱いからこの練習をするんだって自分で考えて取り組めるのが面白かったです。プレースタイルも少し変わりました。高校時代はラックの近くでボールをもらって突進することが多かったですが、筑波はボールを展開するチームなので、横の動きが増えましたね。

シャイニングアークス・チームメイトが写っている貴重な筑波大学時代の写真。中央でボールを持つ山崎選手のすぐ前に鶴谷昌隆。後方の早稲田は手前から西橋勇人、金正奎、上田竜太郎。

――大学時代の試合で特に印象に残っているのは?

1年生の時、対抗戦(関東大学対抗戦A)の帝京大との試合ですね。帝京大は前の年に対抗戦で優勝していて、とても強いチームだったんですけど、この時は僕らが勝ちました。試合後、みんなの喜びようがすごくて。選手も観客もめちゃくちゃ盛り上がって、すごくいい思い出になりました。

――1年生から試合に出場していたんですね。

No.8で出ていました。帝京大とは毎年、印象的な試合になるんですよね。4年生の時は、僕は腕の骨折で出られませんでしたが、チームは勝って、複雑だけど、やっぱりうれしかったです。

度重なる怪我からの回復が見込めず、見果てぬ夢を仲間に託す

――大学卒業後は、シャイニングアークスに。選んだ理由は?

大学でラグビーをするうちに、社会人になっても続けたい気持ちが強くなって。千葉で育ったので、千葉のチームがいいなと思っていました。NTTコムはトップリーグに上がったばかりで、これから順位を上げていこうという時期でした。僕は高校でも大学でも、下から上がっていく経験をしていたので、またそういうことができたらいいなと思ったんです。

――チームに入って、大学時代と変わったことは?

選手もスタッフもみんなフランクで上下関係もキツくなくて、そこは筑波と似ていますが、一つの練習から次の練習への切り替えが早い。それから、コンタクトのレベルが全然違いました。当時はアレサナ・ツイランギ選手(サモア)もいて、「え、この人と一緒にやるの!?」って結構びっくりしました(笑)。

電車で通勤するのも新鮮でした。大学時代は電車にあまり乗らなかったので、入社前は通勤電車にちょっと憧れもあったんですよ。でも、いざ毎日乗ってみると、そんなに甘いものではなかった(笑)。

――選手としては、1年目にトップリーグデビューを果たしました。

九州電力との試合(1stステージ第6節)で、リザーブに入りました。なかなかメンバーに入れなかったので、選ばれた時は「やってやろう」という気持ちでした。でも、後半のラインアウトの場面で出場して、外国人選手をタックルしに行った途端、足が砕けました(粉砕骨折)。試合に入って5秒ぐらいでしたね。折れたっていうか、ズレたみたいな感じで。立ってはみたけど走れなくて、「ああ、またやっちゃったか」と思いました。もともとケガは多くて、大学時代から今までで12~13回骨折しているので。

――それでも、そのシーズンのうちに復帰を。

ぎりぎり、横河武蔵野との入れ替え戦に間に合って、この時は先発で出させてもらいました。楽しかったですね。自分たちのムードで試合を進められて、久しぶりに大学の頃の感じを思い出しました。

その試合でシーズンは終わりましたけど、その春にニュージーランドへ2カ月半ほど留学させてもらって。僕は多分、トップリーグよりニュージーランドでのほうが、たくさん試合に出ましたね。毎週試合があったので。

――ラグビーの本場で過ごせるのは楽しかったでしょうね。

向こうでは、地元チームのホームゲームがある日は、試合前からそこらじゅうにチームの旗を持っている人がいて、街中が盛り上がってるんですよ。試合の後もみんなで騒いだり。ああいうの、いいなと思いましたね。

選手が育つシステムも整っています。一番下のクラブチームだと、選手は平日には仕事をして、休日にラグビーをやるんですけど、そこで活躍すれば上のチームがちゃんと見ていて引き抜いてくれるんです。だからみんな「絶対に選ばれてやる」「上に行く」っていう気持ちが強いですね。

――ニュージーランド留学の一番の収穫といったら何でしょうか。

向こうはとにかくフィジカルがすごいんです。そんなにレベルの高い選手じゃなくても、フィジカルだけはみんな強いですから。そういう中でも自分は結構やれた感があったので、コンタクトプレーに自信がつきました。

でも、帰ってきて、新しく入ったナキ(アマナキ・レレィマフィ選手)にも「よっしゃ、行ける!」って思い切りぶつかったら、自分の顎の骨を犠牲にしてしまいました。ナキの実力を見誤りましたね(笑)。顔にボルトを入れて、針金で固定して、食事はストローで吸って。それが2~3週間続きました。でも、骨折なら骨がくっつけばまたできますから。

――何度もケガをして、それでも復帰すると、また激しく当たっていけるのがすごいですね。

あんまり怖いと思ったことないんです。今思えばそれがケガの原因なんですけどね。思い切り行っちゃうんで。でも、自分の出来ることはフィジカルの強みを前面に押し出してコンタクトしていくことなんで。そこをつぶそうとは思いませんでした。

――顎のケガが癒えた後、2年目のシーズンは?

顎が治ると、今度は高校時代からちょっと痛かった腰がかなり悪くなってしまって。結局、2年目はトップリーグの試合には出られませんでした。12月に大きな手術をして、試合に出られるようになるまでに1年ぐらいかかるという話でしたから。

――プレーできない間、どのように過ごしていましたか?

プレーできなくても、学べるところを学ぶようにしました。治った時に、それまで以上に知識がついた状態で復活するぞ、という気持ちで。ヘッドコーチがロブ(ロブ・ペニーHC)に代わってラグビーのシステムが変わったので、それを習得したり。実際に動いてみることができないので、難しい部分はありましたけど、チームのビデオをよく見て勉強しました。

――そして3年目の2015-2016シーズン。

結果からいえば、まったくプレーできませんでした。腰の手術から1年経たないうちに、補強のための再手術を受けたんですが、その際に感染症にかかってしまって。医療ミスなどではなく、ただ運悪くそういうことになって2カ月ほど入院しました。入院中は「引退」が頭をよぎることもありました。もう一度走れるようになるのか、心もとなくて。

でも、とにかくやるだけやってみよう、と気持ちを切り替えて、退院後はリハビリを始めました。チームのトレーナーが毎日ついてくれて、全力ではないけど、走れるまでになりました。でも、同時にそこで限界が見えてしまったというか。ある程度、回復したものの、以前のパフォーマンスには程遠かったんです。ラグビーをトップレベルで出来る感覚が、もう体にはなかった。

――それで、自ら引退を申し出たんですね。

引退の意思を伝えた時、チームからは「まだいいんじゃないか」「あと1年リハビリをやってみたら」とも言われたんですが、リハビリをするために活動することはできないと思いました。試合に出てチームに貢献するのが選手としての務めだと思うから、それを果たせないことが自分で許せなくて、ストレスにもなっていたので、引退を決めました。

――ラグビーに対して、今はどんな気持ちですか?

もう本当にプラスの思いしかないです。つらい時が確かにありましたけど、全部ひっくるめて、ラグビーやってきて良かったなって思います。ラグビーを通じて、全国に仲間が出来ましたし。それが一番ですかね。みんなと一緒に出来たっていうのが、いい思い出ですね。

選手は引退しましたが、NTTコムには社員として残るので、試合には職場のみんなと応援に行って、今まで以上にファンを増やしていきたいです。選手時代とは違った面でこれからチームに貢献していこうと思っています。

――チームのみんなに伝えたいことはありますか?

同期には特に頑張ってほしいなと思います。高校の頃からよく知っているやつらばっかりで、西橋(勇人選手)とは関東代表で一緒だったし、上田(竜太郎選手)と鶴谷(昌隆選手)とは高校代表で一緒だったし。三浦(嶺選手)と小野(寛智選手)とはNTTコムに入ってからですけど、1年目から「みんなで上を目指そう」って言い合ってやってきたので。

ロブがヘッドコーチになって2年たち、ロブのラグビーがチームに定着してきたので、来季は今季より絶対に良い成績を残せると思います。今季のトップリーグはベスト8から1つ勝てばトップ4入りできる形式だったのですが、例年通りにたくさん試合をして地力が試されたとしても、トップ4を狙えるチームだと思うので、ぜひやってほしいですね。