大久保利通
「大転換期の日本を支えた頑固なリーダー」

大久保利通「大転換期の日本を支えた頑固なリーダー」

西川 修一(ライター・編集者)歴史に名を馳せた武将、時代を動かした英傑たち。そんな歴史的リーダーたちのビジネススキルや組織運営を学ぶ連載です!

目次

識者 伊東潤さん
今回の歴史的リーダー大久保利通はどんな人?

大久保利通(1830~1878)は、明治初期の政治家、武士(旧薩摩藩の下級藩士)。同郷の西郷隆盛とともに、明治維新に特に功績のあった維新三傑の一人に数えられる(他は木戸孝允)。国父・島津久光に抜擢され京都の政局に関与。岩倉具視らとともに公武合体路線を推し進める。薩長同盟を成立させて倒幕、王政復古のクーデターを起こし、明治新政府では中央集権体制の確立に尽力、その中核を担う。岩倉使節団の副使として歴訪した欧米から多くを学び取り、日本の近代化に貢献した。1878年、東京・紀尾井坂で暗殺され死亡。

「日本を立て直す」高い志と視座を持つ

文久の政変によって京都から追放された長州藩が、会津藩主兼京都守護職の松平容保(かたもり)と、その弟で桑名藩主兼京都所司代の松平定敬(さだあき)らの排除を目指し、上洛戦を展開したのが、元治元年(1864)七月の禁門の変(蛤御門の変)になります。

しかし会津・桑名両藩に加えて、公武合体派の薩摩藩が参陣し、長州藩は撃退されます。
これにより、倒幕を念頭に置いた尊王攘夷派の勢力は一気に後退します。その後、政局は禁裏御守衛総督の一橋慶喜と会津・桑名両藩が主導します。これを一会桑政権と呼びます。
一会桑政権は、第一次長州征討を行おうとしますが、この頃、薩摩藩内では、こうした強硬論に疑問が持たれ始めます。

小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通ら開明派は、幕府が衰退し始めていることと、内乱が長引けば諸外国の介入を招くことを危惧し、長州藩の寛典処分と早期解兵を模索し始めます。
とくに西郷は事態の収束に奔走します。よく「西郷は軍人」などと軽々しく言われますが、彼は戦うことを好まない、どちらかというと政治家気質の人間です。

西郷らの暗躍の結果、第一次長州征討での直接の戦闘は回避され、禁門の変の首謀者と思しき長州藩の重役たちの切腹によって、うやむやのうちに収束しました。これに一会桑勢力は激怒します。

しかし、江戸にいる幕府の老中たちはそうでもありませんでした。
これを見た小松・西郷・大久保らは、一会桑勢力と幕府老中らが一枚岩でないことを見抜き、長州藩と戦争になっても、慶喜の思惑通りに行かないと見越したのです。

ここで薩摩藩が流れに身を任せていたらどうだったでしょう。
おそらく第一次長州征討戦は長引き、その間に諸外国の介入を招いていた公算が高くなります。結局、日本を東西に二分するような泥沼の内戦が始まっていたかもしれません。

大きな目標のためなら、路線変更をためらわない

このときの薩摩藩としては、長州藩と手を組むところまでは考えていないものの、とにかく戦争をやめさせ、挙国一致体制を敷かないと日本は混乱するという大局に立った判断、すなわち高い視座から判断を下したのです。

そして薩摩藩としては、一会桑勢力に肩入れしすぎると、その背後の幕府も含めて勢力を盛り返し、列強との交易などを独占しかねないと思うようになります。そうなれば長州藩に次ぐターゲットは薩摩藩になります。

そこで薩長同盟締結の動きが加速します。
慶喜が会津・桑名両藩と共に諸藩に呼び掛けた1866年6月の第二次長州征伐に、薩摩藩は出兵を拒否します。そして薩摩藩の名義で購入した鉄砲と蒸気船を長州藩に送ります。
さらに長州の天才的な軍略家・大村益次郎らの活躍で、幕府軍は大敗を喫します。このとき、第三次征討の動きもあったのですが、14代将軍徳川家茂が死去したことを理由に、慶喜は兵を引きました。かくして明治維新の流れが形作られていきます。

しかし、大久保は久光と共に、公武合体の方針を捨てませんでした。
そこでもう一度、朝廷に働きかけ、島津久光(薩摩藩主の父)、松平春嶽(前越前藩主)、山内容堂(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)に15代将軍・徳川慶喜を加えた四侯会議を、1867年5月に開かせます。
そこで酔った慶喜が久光を罵倒するなどして四侯会議は空中分解します。これは参与会議に続く失敗で、大久保と西郷は現状の体制を維持したまま、新しい政体に移行する公武合体論を捨て、「倒幕しかない」という認識に至りました。

その後、慶喜は15代将軍に就任するものの、孝明天皇というバックアップを失うことで迷走を始め、遂には大政奉還という思い切った手に出ます。これは大久保・西郷にとって計算外でしたが、小御所会議で慶喜に辞官納地させることで一致し、鳥羽伏見の戦いへと流れ込んでいくのです。

頑固でブレず、時には人を切り捨てることを
いとわない強さ

大久保のパーソナリティーの大きな特徴は、粘り強くて頑固なこと。そしていったん決意したら、てこでも動かないことです。確かに幕末の政局は目まぐるしく変わり、大久保と西郷も翻弄されるときもありました。しかし彼らが強いのは、流れに身を任せるのではなく、流れを自ら作っていったことです。つまり公武合体から倒幕へと迅速に転換し、彼らは時代の主導権を握っていくわけです。

なぜそれができたかというと、彼らは常にプロアクティブだったからです。長期的には日本を迅速に近代化していくこと、中期的には新しい政体を確立して挙国一致体制を築くこと、そして短期的には倒幕という形で、未来を見据えた戦略や戦術が確立できていたからこそ、時代の主導権を握ることができたのです。

こうした先を見る目の鋭さは、出たとこ勝負で思いつきの慶喜や、尊王攘夷一辺倒で政局の変化に柔軟に対応できない長州藩とは一線を画していました。
もっとも大久保は、大きな方向性は打ち出せるものの、勝海舟や坂本龍馬のような発想の飛躍はできない人でした。これは西郷も同様でした。

ただし時代から取り残された武士たちの立場にも同情し、情誼(じょうぎ)を重視する西郷と、そうした人々を切り捨ててでも、日本を近代国家にしていこうという大久保の考えには隔たりがありました。それが倒幕という目的を達成した直後、明らかに出てきてしまい、西郷は鹿児島に帰ってしまうのです。

大久保は決して陽気で楽しい人ではないし、誰に対しても思いやりのある人ではありません。しかし、時代の転換期には、ドライでクールな大久保のようなリーダーが必要です。明治維新を迎えてからは、大久保が先頭に立って走り出します。それに伊藤博文や大隈重信といった近代化急進派も賛同し、明治政府は次第に形を成していきます。

1873年、初代内務卿に就いたとき、大久保が内務省にやってくると、役所内の空気が凍り付いたと言われています。

ある意味で織田信長以上に厳しくて怖がられたトップダウン型のリーダーと言えるでしょう。信長ですら相撲や茶の湯を好んだという逸話がありますし、家康も鷹狩りを好みました。秀吉に至っては人間味あふれる逸話が数多く残っています。しかし、大久保には、そんな面白みが一切ありません。若い頃の話ですが、畳を頭上に掲げ、それを振り回して踊るという独特の宴会芸くらいでしょう。

もっとも坂本龍馬の海援隊のように、皆でワイワイガヤガヤ騒ぎながら運営する組織と、氷のようなトップダウンの組織とでは、どちらがいいかは微妙です。スタートアップ企業は、トップがみんなの輪の中に入っていく前者のほうがいいでしょう。そうした意味でも、大久保は昭和の不器用な経営者の原形のような気がします。

1871年に大久保が岩倉使節団の一員として欧米を巡る際、事前に「われわれが留守中は何もするな」と、西郷ら留守政府の面々と約束したにもかかわらず、使節団の欧米への滞在が長引くと、西郷が参議を増やし、その一人である江藤新平、大隈重信、伊藤博文らが新たな法令を勝手に作っていきました。

大きな方向性とロードマップ作成

これは大隈の日記に記してあるのですが、会議中、政治が嫌いな西郷や板垣退助は昔の手柄話や自慢話しかしません。それがちょっと途切れたときに大隈や江藤が、「では、この法令はこれでいいですか」と問うと、西郷は「うん、よかど」と答える。それで法案が通ってしまうのです。帰国した大久保はもちろん激怒します。

もともと西国諸藩の寄り合い所帯で仲良しクラブではなかった明治政府は、そこから内部の人間関係がこじれていきます。大久保は策略を巡らせ、明治6年の政変で西郷と江藤を下野させ、「有司専制」という自らの独裁体制を確立します。それだけでなく佐賀の乱、西南戦争を誘発させて江藤を死刑に処し、西郷を自害に追い込みます。

非情で冷徹という点では、大久保を評価できる点もありますが、それが過ぎると政府内外で孤立するというマイナス面は否めません。孤立すれば疎外感を抱くのが人というものです。そうなると自らの権力を強化しようと粛清を開始します。現代でもプーチンや習近平は、このサイクルに入っていると思います。

またそれ以外のひずみも出てきます。
維新当初まで大久保は近代化に賛成でした。
しかし、大隈、伊藤、井上馨ら急進的な中堅官僚が、迅速な近代化を推し進め、さらに議会制民主主義を導入しようとしたことで、大久保はブレーキを踏み始めます。
というのも西洋諸国が、まず国権を強化した後、徐々に民権に移行していった経緯があるからです。つまり即時の議会制民主主義の導入に腰が引け始めたのです。

海外視察に出かけ産業革命のすごさを実見してきたにもかかわらず、大久保本人がブレーキ役を果たすことになります。これに伊藤は従いますが、大隈は相変わらず急進論を唱え、閣内で対立が深まります。

しかし、こうした対立も長くは続きませんでした。西南戦争の翌年の1878年、大久保は旧加賀藩士族らによって暗殺されるからです。かくして政治の主導権は伊藤と大隈の間で争われますが、長州藩閥を従えた伊藤が実質的な政府の首班となっていきます。

専制君主的なリーダーシップが仇に

国家について「こういう方向でやっていこう」という大まかな方向性を打ち出すことができた大久保ですが、細かいことは苦手でした。
大久保の打ち出した方向性を、いつ、どうやって、どのくらいのコストで、また資金をどこから調達するか、借款なら毎年利子何%で返済していくか、そしてその事業の利益が、いつからどのくらい出るかといった現実的なロードマップに落とし込むのを得意としていたのは、大隈でした。

現代の組織の長は、政治家でも経営者でも、自分でロードマップを描けます。フランスのマクロン大統領やカナダのトルドー首相は、正しい情報を伝えてくれるサイトを知っていて、自ら情報を取ってきて政策を打ち出していきます。一方、日本の政治家で英語サイトまで含めて、こうしたことができている人がどれくらいいるでしょうか。

そう言うと、すぐに「忙しい」という言い訳が返ってきますが、ネットなどというものは慣れなので、使いこなしていくうちに効率が上がっていきます。

私は生産性ではトップクラスの作家と言われていますが、ネットのみならず史料類や研究本も含め、自分の欲しい情報に最短時間でヒットする技術に長けているから、効率がよいのです。こうしたものを直感と呼びますが、何事も場数を踏んでいるからできることです。政治家や企業経営者は、何事も人任せにせず、最後までプレーヤーでいてほしいですね。

リーダーたる者、ロードマップを描くことまではいかずとも、自分で描いた絵の実現性をシミュレートせねばなりません。情報がフラットに行き渡る今の時代のリーダーは、そこまで細かく行うことが求められているのです。

鹿児島県歴史・美術センター黎明館(鹿児島市城山町)

島津家の居城・鶴丸城の本丸跡にあり、約15万5000点に及ぶ貴重な文化遺産を所蔵。幅広い鹿児島県の歴史・民俗の展示や研究が行われており、特に幕末・維新期の資料が充実。 1階では先史・古代から近現代までを4つの時代に区分し、それぞれの代表的な施設・街並みを、大型の模型を使って再現している。ジオラマ、映像も充実。多言語対応の音声ガイドを導入。

この記事はドコモビジネスとNewsPicksが共同で運営するメディアサービスNewsPicks +dより転載しております 。  
取材・文:西川修一
編集:岩辺みどり
バナーデザイン:山口言悟(Gengo Design Studio)
イラスト:榊原 美土里

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