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下山 貴弘 Takahiro Shimoyama

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「シモヤマ~~、タカヒロ~~!!」とグランドに響き渡る大声での声援を耳にしているファンは多いと思う。ユニークなキャラクターであり、ベテランとしてチームを精神的に支える役をも背負う彼は、ラグビーとNTTへの熱い想いをほとばしらせてくれた。

下山 貴弘

ヤンチャなデブが、すぐにラグビーマニアになった

――今日よろしくお願いします。

いやー、長かったです。自分、この選手Focusの取材オファーを3年間ずっと待っていたんですよ。中々声がかからないので、もうお呼びはかからないのかなと(笑)。

――独特なキャラとしても有名な下山選手ですが、幼少期はどんな子供だったのですか?

ひとことで言うとヤンチャ系です。体も当時からでかかったので、ガキ大将的なところが小学校の時からあったかもしれないですね。親父が野球をやっていたので、野球は遊びでやっていたんですよ。それでずっと野球をやろうと思っていたんですけど、途中でラグビーに出会ってから、一瞬でラグビーの虜になりました。

――当時はどの位の体格だったのですか?

肥満児体型だったんですけど、小学校卒業するときに165センチ、80キロありましたね。でかいって言うか、まあ、デブですね(笑)。で、中学を卒業するときは180センチ、100キロくらいで、プロップとしての体型が既に出来ていました。

――その時は、スポーツは何かやっていましたか?

小学校からラグビーですね。小学校にラグビー部があったんですよ。成蹊小学校だったのですが、クラブを始めるのが5年生からなんですが、そこからラグビー人生が始まりました。

――なぜラグビーをやろうと思ったのですか?

ラグビー=ヤンチャ系なスポーツというイメージがあって、その小学校の中でもヤンチャな男の子が集まるクラブだったということもあるんですが、当時の校長先生(亀村五郎先生)がラグビー部の顧問だったんですね。それで、亀村先生から4年生の時にやってみないかと誘われて...あとは同級生の兄貴がラグビー部だったので、その同級生がラグビーボールを学校に持ってきて、グランドでタッチフットとかを始めたのがきっかけですね。

――かなりの巨漢だったと思いますが、運動する子供だったんですね。

そうですね、要するに「器用デブ」でした。足は速くないんですけど、小器用な感じですかね。ラグビーは、体をぶち当てるようなタックルだったり、ボールを持って突進するようなところに魅力があって。あとは、大勢の仲間で出来るというところに魅力を感じましたね。

――当時のポジションは?

その時から「3番」です。一番でかい奴が3番をやるっていうのがあって、背以外でも体重も一番重いというのがあったので。それで「お前は3番だ」と言われて、気付けば今も3番で、まあ大学でフッカーなんかも経験しましたけど、結局最後は3番ですね。

――他のポジションをやりたいと思ったことはありますか?

やりたいとは思ったことはありますが、まあ出来ないというか(笑)。フォワードだったらNo.8だったり、バックスだったらセンターとか、ウィングとかやりたいとかは思っていましたけどね。

――中学生になってもラグビーを続けましたが、当時を振り返って

中学のときは東京の成蹊中学というところに行っていたのですが、一番上の大会で東日本大会というのがありまして、決勝トーナメントの4チームに残ると、秩父宮で試合が出来るんですよ。その秩父宮を目指して、関東の中学生は頑張るというわけです。最後の3年生のときに東日本大会に出場できて、秩父宮でプレーする事が出来ました。それで、一つ夢が叶ったわけですが、そこからラグビーを続けていく上で、秩父宮の舞台でまたやりたいなという思いがあって、ずっと続けてきました。その中学のときは、同期にクリ(栗原 徹選手)とか、タク(菱山 卓2009年度引退)がいまして、タクとは試合をしたことがあります。当時から彼らは目立っていたので、私は覚えているんですけど、その話をすると向こうは覚えていないっていう・・・(笑)。実は、自分は中学を4年間過ごしているんですよ。中学を4年間過ごしたのは、諸事情で1年留年をしてしまったのですが、年子の弟(慶太)と同級生になってしまい、2番、3番で一緒にスクラムを組んでプレーしたという懐かしい思い出があります(笑)。

――でも高校は、東京高校に進学されたわけですよね?

そうですね、それもまた色々と波乱万丈で。成蹊高校にはそのまま進学したのですが、高校1年から2年に上がるときに、またちょっと・・・諸事情があり進級できなくなったんですね。それで、そこでまた留年してしまうと、成人式を高校生で向かえてしまうということになっちゃうので(笑)。それは流石にマズイので、東京高校に転校という形で2年生から編入させて頂きました。ただ、東京高校に行かなければ、今の自分はいないと思っています。東京高校に行ってからラグビー人生が開けたと思っていますね。森秀胤先生を始め、当時お世話になった方々には今でも大変感謝しています。

第45回 関東高等学校ラグビーフットボール大会 1997年6月 於:千葉県総合運動場ラグビー場第45回 関東高等学校ラグビーフットボール大会 1997年6月 於:千葉県総合運動場ラグビー場

――東京高校へ転校して何が一番変わりましたか?

ラグビー中心の生活ができる環境に変わったということですね。あとは、当時の成蹊高校と東京高校では力の差がありましたので、練習試合にしても、相手の強さのレベルが違っていたり、高い目標を掲げる中で厳しい練習をしていたので、そこで基本プレーなどの下地が出来たのではないかと思っています。

――高校時代の下山選手はどんなキャラでした?

今チームに、ヤスキ(山口泰生)とキンゴ(磯田金吾)とハルキ(佐藤晴紀)と、高校の後輩がいるんですけど、泰生が1学年下で、金吾が2学年下なんですよ。1年生からは恐れられていたんじゃないですかね。まあ、そういう役割というか。後輩が粗相をしたら、率先して指導する係でした。先生に対するちゃんとした礼儀、態度や、先輩に対する挨拶なんかは、厳しい学校だったので、1年生のときにしっかり教え込むと。

――教育係だったということですね。山口選手や磯田選手に指導をしたことは?

いや、泰生も金吾もイイ子だったので(笑)、彼らには直接何かをすることは無かったのですが、多分彼らの同期の仲間たちからは、今でもそういうイメージ(恐い教育係)に思われているんじゃないですかね。

――高校3年時の最終成績は?

春は東京都で準優勝までいって、秋は花園有力と目されていたのですが、ベスト8で東海大菅生に負けてしまって、花園には行けずという結果でした。(最後の東海大菅生戦では)僅差だったのですが、とにかく夢が散ってしまったので、悔しくてみんな泣いていましたね。

近鉄花園ラグビー場開場70周年記念ラグビー大会 H11.5.23近鉄花園ラグビー場開場70周年記念ラグビー大会 H11.5.23

――そして帝京大学に進学されますが、ラグビーを続けるという思いは持っていましたか?

そうですね。小学生からそうなんですけど、ラグビーマニアの少年だったんですよ。例えば、「ラグビーマガジン」を毎月買うのは当たり前なんですけど、バックナンバーを探しに神保町の本屋に探しに行ったりだとか、テレビでやっている試合なんかは全部録画して保存しておくとか。あとはラグビー関係の書物を買い漁ったりとかしていました。ラグビー中継はよく家で見ていて、秩父宮で行われる大学ラグビーに憧れがあって、ずっとどこかの大学でラグビーをやりたいなという思いはありました。

――ラグビー関係の書物というのはどんな本を読んでいたのですか?

ラグビーの知識を身につけるために、スキルに関する本や、ラグビーライターの人が書くようなマニアックな本だとか、選手名鑑をよく読んでいました。それが高じて、色々な選手の出身校だとか、身長、体重なんかも頭に入っているんですよ。例えば、街中などでラグビー選手を見かけると、「あ、こいつは何処の誰だ」っていうのがわかっちゃうんですよ。でも、相手は僕のことを知らない場合がわりと多いんで、「何見てるんだ!?」って睨まれる事もありますけど(笑)。心の中でのライバルは山賀敦之大先輩(帝京→セコム)です。

――帝京大学に決めた理由は?

当時、岩出監督に声を掛けていただいたということがありますが、日本代表クラスの選手たちもたくさんいましたし、早稲田、慶応、明治という伝統校にチャレンジしているチームなので、その環境の中で自分がどれだけできるのか試してみたかったというのもありました。

――入部してみてどうでしたか?

入部した頃は120kgあった体重が、最初の4ヶ月で30kg落ちたんですよ。90kgくらいになって。走る練習が高校の時に比べると多いのと、寮生活にストレスを感じているとは思っていなかったのですが、自然と体重が落ちていって、気づけば90kgまで体重が落ちていました。なので、一時期「3番」としては体重が軽くなってしまったので、その時から「1番」やフッカーをやっていたこともあります。ただ、走れるようになった分、プレーにも幅が出てきましたので、大学と高校のコンタクトプレーの差もよく言われるんですけども、その差も徐々に感じなくなり、2年のシーズン後半には初めてリザーブに入れました。

――印象に残っている試合はありますか?

大学3年時の対抗戦での早稲田との試合ですね。その時はディフェンスの帝京と言われるくらい、チームの一人一人がタックルも強くて、整備されたディフェンスのチームでした。それでも帝京が早稲田に勝つことはあまり無かったのですが、自分が大学で初めて秩父宮でやった試合がその試合だったので、その時に早稲田に勝てたというのが一番の思い出です。

NTTの伝統を継承していきたい

――NTT東日本に入られた経緯は?

帝京大歴代主将の先輩、勝美さん(宮本勝美OB)と修さん(現・長島コーチ)に声を掛けて頂いたのがきっかけです。自分はラグビーマニアだったもので、選手名鑑を読んでると、どの選手がどのチームにいるかとかわかるじゃないですか?その時に、沼さん(現・大沼監督)だったり、マヤさん(馬屋原誠選手)とか、大学ラグビーで活躍してた選手が多く、良い選手がいっぱい揃っているからラグビーも楽しいんじゃないかなと思いました。当時は、NTT東日本の新卒採用が無かった時代なんですよ。ですから採用自体はNTTドコモに採って頂いたんですね。そこでNTTドコモに入って、ラグビーは東日本でという形の生活がはじまったわけです。ドコモにはラグビー採用で入ったのが自分一人しかいなかったので、ラグビーをやっていることを一から職場の人に説明しなければならないんですね。残業は出来ないってことを伝えたり、その環境をつくるまでが大変でした。でも、最初の職場からすごく恵まれていたんです。ドコモ時代に運命的な出会いが一つあるのですが、社会人2年目の終わり頃に組織統合で異動があった時に出会った課長が小林課長という、今もスキンヘッドで大声で応援して頂いている方とそこで出会ったんですよ。

――いつも試合中「下山コール」をしてくれている方ですね。

それから弟のように可愛がってもらって、酒も一緒に飲むようになり、試合がある度に、秩父宮に来てもらって声援を送ってくれる。それで何年かして課長の下を、また異動とかで外れたのですが、それ以来、付き合いはずっと今でも続いているんです。ちょうど昨日も飲みに行ったんですけど。

――社会人という環境のなかで、満足のいくラグビーはできましたか?

大学から社会人になる時に、当時は「楽しくラグビーが出来ればいいな」という風に考えていたのですが、やっぱりやっていると負けたくはないじゃないですか。それで、ちょうどトップイーストが始まる前の年に、東京ガスに初めて勝った試合があるのですが、そういう格上の相手に勝つ「喜び」というのが、自分の中にちょっとでもある以上、チームとしても、個人としても勝ちたいという思いで皆やっていたと思うので、その思いが1年ずつ結果で出てきたというところはありますね。何かのタイミングがあれば一気に強くなれるという土台は当時からあったと思います。

――そして2007年からは、NTTコミュニケーションズ・ラグビー部になり新体制で活動を始めます。チームが変わっていく状況を振り返ってどのような思いがありましたか?

ラグビーをやっている以上は、もっと強くなりたい、上に行きたい、という気持ちが芽生えていた時期でした。でも、会社を変えなくてはならないし、今までやっていた仕事を手放してでもラグビーをメインにする必要が出てきたわけじゃないですか。ただ、数えてもあと何年もラグビーをできないものだと感じていたので、ラグビーをやり切れるいい機会だと思って、NTTコミュニケーションズに皆で移ってやろうと決意しました。今までの過程で去らざるを得ない選手も出てきてしまいましたが、自分としてはラグビーを続けられる環境がある限りはこのチームでやりたいという思いがあって、昔から知っているチームだし、このチーム自体が好きなんですよ。だから、メンバーが変わったとしても、このチームに対する愛着はずっと持ち続けて今日までやってきたという思いはありますね。

――チームにおいて自身の役割はどのように考えていますか?

今は試合に出ていないということもありますが、若い選手にプレーで教えることはあまり無いと考えていて、このチームでやってきた経験とかチームの歴史とかを、新しく入って来た移籍選手や、新卒の選手に対しても語り継いでいく役割と考えています。

――どういうことを語り継ぎたいですか?

この過渡期の数年においては、シャイニングアークスでやりたくてもやれなかった選手がいっぱいいます。多分、去っていった選手を知っている人たちは、そういう彼らの気持ちも持ちながら、一年でも長くやりたいって気持ちがあるだろうし、今後もこれ以上強くなろうとしているチームの中では、人の入れ替わりというのは必要な事ですが、そういう痛みがあった事で今のチームがあるたということを感じてもらえればなと思っています。あとは、オフの時は皆で、飲んで、食って、歌って、馬鹿やって、絆を深めるというNTTの古き良き時代からの文化を継承する事ですかね。そういうつなぎ役というか、そんな役割を自然にできていればいいなという感じですね。

――下山選手がラガーマンとして目指す所は?

チームとしてトップリーグ昇格を目指して来て、今年トップに上がれた訳ですが、やっぱりトップリーグにいる限りは試合に出ないと意味がない。試合にでることが今の目標です。今まで自分がラグビーを続けられているというのは、ドコモ時代も含めて、練習へ快く送り出してくれる職場の方々の理解と支えがあったおかげだと思います。その応援してくださっている会社の人たちのためにも、成蹊、土手高、帝京、東日本で共に戦った今も応援してくれる仲間のためにも、それと私を丈夫な身体で生んでくれて、ここまで大きく成長させてくれた両親のためにも、一試合でも多く舞台に立ちたいと思っています。最近、小林課長から「お前出ていないから、下山って叫べないじゃないか」と言われるのですが、またあの声を聞きながらトップリーグの舞台に立ちたい、それが今の一番の目標です。