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沼尻 大輝 Daiki Numajiri

バックス・WTB / FB

熊谷ラグビー場のすぐ近くの家に生まれたことが運命なのか。小学校からラグビースクールに入り、ラグビー部の無かった中学校に、入学前の小学校6年生であった自分たちで周囲の大人たちを動かしてラグビー部を設立させてしまったという、青春ドラマのような経歴を持つ。

沼尻 大輝

ラグビー一直線に突き進んできた

――ラグビーに触れたのはいつ頃ですか?

小学2年から、埼玉の熊谷ラグビースクールで始めました。熊谷ラグビー場から家がすごく近くて、歩いて3分くらいの所にあるんですけど、その環境が今に繋がっているというところがあると思います。結構動き回るやんちゃな子だったらしく、親が何かスポーツやらせようと思った時に、近所にも熊谷工業高校の先輩も多かったので、じゃあラグビーをやらせようかって話しになって、スクールに入ったのが始まりですね。その他にも水泳やっていたり、サッカーや陸上もやっていました。ラグビーの前には体操もやっていましたね。

――運動が好きだったのですね。

運動が得意というわけではなくて、動き回るのがすごく好きだったんですよ。保育園でもブラックリストに載っていたくらい、人に迷惑ばっかりかけているようなやんちゃな子供だったと言われました。保育園で自分のことを知らない先生はいないくらいの手に負えない感じの子供だったみたいです。

――中学生の時もラグビーを?

僕の学区にある中学にはラグビー部が無くてですね、だからラグビー部を作って欲しいと、ずっとスクールの監督に相談していて、監督も「ラグビー部を作ってあげよう」と言ってくれていたのですが、そんな簡単には作れる状況ではなかったんですね。自分が中学へ入学する年に、ラグビー部の顧問をやっていた先生が異動で入ってくるのですが、ラグビー部を作るつもりはなく、サッカー部の副顧問になる予定だったんですよ。たまたま、ラグビースクールの監督が、その先生と知り合いだったので、電話していただいて「何でラグビー部を作んないんだ」って怒鳴りつけたみたいで(笑)。そうしたら、学校側ではラグビー部を作るつもりは無いということが分かって、それから監督は校長先生に電話して頼んで下さって。2、3時間話しをしたらしいんですけど(笑)。結局、部員を20人集めたら作りましょうという話に収まったんです。その次の朝に「ラグビー部を作れるぞ」って電話がきて、「俺はここまでやったから、あとはお前たちが部員を集めるだけだ」と言われました。それから小学校の男子全員に電話をする日々でした。最初、自分を含めて3人だったんですけど、小学校に集まって作戦会議をして(笑)、仮入部用のポスターを作ったり、親御さんにもラグビーの説明をして説得させたりとか。本当にラグビーが好きだったので、小学生の癖にがんばりました。結果22人も入部してくれて、それで「出来た!!」とその3人で喜びました。

――すごい!ドラマみたいですね。

春休みの間にラグビーを知らない同級生に一からラグビーを教えていたんですよ。先輩も入ってくれたりして嬉しかったです。新人戦ですごくいい結果を残せたので、関東大会にも行けたのですが、準決勝でこけちゃいました(笑)。最後の自分たちの代の新人戦では、県で2位の成績も残せました。メニューも殆ど自分達で決めていていたので、結構大変でしたけど面白かったですね。やりがいがありました。ラグビーは本当に大好きでしたから。サッカーとか野球とか全然比べものにならないくらい好きというか、自分に合っているスポーツなのかなと思います。

――創部のメンバーということですが、キャプテンを務めたのですか?

キャプテンは違う人にやってもらっていました。自分がやっちゃうとですね、結構キツいんですよ。やっぱり、皆は楽しくラグビーをしたい、でも自分としては上を目指してやりたいという思いがあったので、自分がキャプテンやっちゃうと皆ついてこないかなと思って。だから他のメンバーにやってもらったというのもありますね。

――高校生の頃の話を聞かせてください。

熊谷工業高校に進学して、そこではキャプテンをやらしてもらっていました。3年生のときは優勝候補にも挙がっていたんですよ。でもチームが噛み合わなくなって、春の新人戦では4位になってしまって凄く泣いたりしました。でもその後の関東大会に入る試合では、埼玉県で優勝出来て、関東大会Bブロックに出場して、東京高校や国学院栃木、東京農大二高とか結構強いチームがいましたが、上手くチームがフィットしてBブロックで優勝できたんですね。だから、当時の熊工は「今年は凄いよ」みたいになっていたんですよね。全国大会が始まる前には伏見工業(この年の花園優勝校)ともやって、12対14だったかな?接戦して負けてしまったのですが、そんな感じでしたので、今年は絶対いけると思っていたのですが・・・決勝で深谷高校に7対8で負けました。

――それは悔しいですね。

悔しすぎますね。ほんとに。ロスタイムが8分もありまして、意味が分からないんですよ(怒)。プレーが切れなくて。レフリーにもやられたって言ったらアレなんですけど、本当に悔しかったですね。ロスタイムで逆転されました。ずっとゴール前のディフェンスで潰していたんですけど、最後は穴を見つけられてピョンとトライされてしまいました。

――高校生の頃のポジションは?

フルバックだったんですよ。それまでスタンドオフでしたが、2年の途中からフルバックをやってくれって監督に言われて、本当は嫌だったんですけど、監督からは「視野を広げてくれ、絶対お前のためになるから」と言われて、フルバックをやるようになりました。でも、フルバックやるようになって、高校日本代表にも選ばれるようになって、高校終わった後にU19の日本代表にもフルバックで出させてもらって、アジア大会に出たりとか、その先の世界大会にも出さしてもらって楽しかったですね。ですから、花園に出られなかった悔しさはあったんですけど、その直後にU19の話しが来て、落ち込んでいる場合じゃないなと思って、そこから奮起してU19に徹しました。まあ両方行けたら良かったですけどね、本当に花園行きたかったので。

――U19に選ばれた時はどう思いましたか?

アジア大会の時は、花園が終わった時に選抜の合宿があったのですが、その候補合宿には自分は参加していなかったんですね。それで、高校の監督が「いいやつがいるから」って話をしてくれたみたいで、まあ自分ではコネみたいなつながりでU19に入れたと思っていたんですね。それでアジア大会にいきなりポンって入れてもらったんですけど、最初は候補メンバー中でも僕のことは知られていないし、当然スタメンにはなれなくて。正規のフルバックの人がいましたが、ある試合で後半15分くらいから入れって言われて、ここしかアピールできるのは無いなと思って、そこでトライを取ったり、ディフェンス面でアピール出来たりして、じゃあ次の試合スタメンでいってみようかと言われて。それで当時のメンバーの中で最多トライを取れたりして、アピールできました。それからずっとフルバックに定着してアジア大会に出場できました。最後には自分の実力で日本代表に選ばれたことを示せたと思います。

――ジャパンを背負って試合をするというのはどういう気持ちですか?

試合前に国歌が流れるし、やっぱり日本代表として出たくても選ばれない人が多くいるので、その人のためにも日本のためにも、絶対に体をはろうと毎試合思っていましたし、もちろん今もそう思っています。

――世界を相手に闘って感じたことは?

ルーズボールに対して反応がすごく早いとか、あとは瞬発力ですね。瞬間のスピードがすごく早かったです。特に、オールブラックスとやった時は10対90で負けて、すごい力の差を見せつけられたんですけど、世界との差がはっきりと分かる試合だったので、とても勉強になりました。あとは初速のスピード。ターンオーバーして走ったのですが、10メートルくらいしか走らせてもらえなかったですね。バッキングが早いんですね。一人抜いても次から次へと来るので。ポジショニングもいいですし。今のままじゃ無理だなと思いました。体格の差は、どうしようもないと思ったのですが、組織的な面では通用することがわかりましたし、流れを掴めた場面もありました。外人には低いタックルが効くと思えたし、体力はそこまで差が無いと思ったので、日本はテンポの早いラグビーで体力勝負に持ち込めばなんとかなるのかと思いました。

――大学は帝京大学に進学されますが、経緯を教えてください。

結構いろんなチームからの誘いをいただいていました。明治や早稲田とかからも話がありましたが、一番最初に話をいただいたのが帝京だったんですよね。2年の夏くらいに。でも当時は帝京のことを良く知らなかったので、対抗戦やビデオを見たりして、これから伸びていくチームで面白そうだなと思ったんですけども、どちらかというとFWのチームだなと思っていました。親父は明治に入れさせたかったみたいですし、僕も明治に興味はあったので、高校の監督に明治に行きたいんですよね、と相談したら「ダメだ、お前は帝京に行け」と言われて、「一番最初に来てくれているし、お前が必要と思われているんだから応えてやるべきじゃないか」って言われ、熊谷工業から帝京に行った先輩がいたので、話を聞いたりして、じゃあチャレンジしてみるかと3年になる前に決めました。

――帝京ラグビー部に入ってみてどうでしたか?

やっぱりFWのチームというのは間違いなかったです。でもディフェンスを重視するチームでした。自分はディフェンスも好きだったし、ディフェンス面を大学4年間で強化出来たと思います。後は組織ラグビーですね。高校だと少しだけ決め事を作って、後は自由だったんですけど、帝京は本当に組織でラグビーするチームだったので、ラグビーの勉強には充実した4年間だったと思います。1年のときから試合に出させてもらって、最初はリザーブだったんですけど、やっぱり大学のスピードについて行くのが精一杯だったという部分がありました。2年の時はレギュラーで初めて早稲田戦に出て、観客の数が多いということもありますが、今まで経験の無い重圧を感じる試合で、緊張もあって、ミスもあり、テンションが下がってしまい負けてしまいました。その次の週に部内マッチがありまして、その試合で半月板を損傷してしまって、手術しなければならないことになり、これからどうなるんだろうと、そこが初めての挫折というか、真っ暗になりましたね。そこから半年くらいして、ようやくしっかり動けるようになって、3年生の6月には復帰できて、その年の日体大戦でリザーブに入れて、その次が早稲田戦だったんですけど、そこでシーズン初スタメンになれました。この試合で結果を残すしかないと自分で思っていたので、死にものぐるいでやって、何十年かぶりに早稲田に勝って、この3年の時に対抗戦で初優勝もできて、やっと復活できたなという感じがあったすごく良い年でした。

――大学ラグビーで得たものは?

優勝したという財産は大きいですね。何処へ行っても初優勝した代だと言われるので、すごく嬉しいなと思ったんですけど、優勝したところで、僕は最後の試合は出場できていないんですよね。だから悔しい思いがあったので、ShiningArcsに入って自分は頑張ろうと思っていました。あとは、ただスキルだけじゃ上には行けない。やっぱり理屈があって動いている部分がラグビーにはあるんで、そういう部分が勉強になったし、意識できるようになったかなと思います。

チームと共に喜びを噛み締め、成長していきたい

――ShiningArcsに入った経緯は?

どういうチームなんだろうということを知ろうと思って試合も観に行って、優勝した時の豊田自動織機戦とかその後の日本選手権のトヨタ戦とか東海大戦とか見たりしていました。倉林さん(倉林史和選手・帝京大学時代の先輩)にも、いいチームだし良い会社だということは聞いていて、すごく伸びしろのあるチームだとも感じていたので、出来たら自分が入ってトップリーグに上がりたいなと思っていたんですけど、自分が入ると決めた時にトップリーグに昇格したので、それはそれで嬉しかったんですけど、最初は一緒にトップリーグに上がりたかったという思いがありました。

――今年からトップリーグで戦う、言わば新しいチームとも言えますが、そこに不安などはありませんでしたか?

全然ないですね。むしろ面白いです。トップリーグで闘えるっていう喜びもありますし、先輩もいるので、不安はありませんでした。このチームに入って思ったのは、サポーターや社員の人がすごく団結力があって、応援して下さって。他の部署の方も応援してくれて、なおさらチームのため、会社のためにも頑張ろうという思いが最近すごくあります。

――世界的な選手と同じチームでプレーすることに対して思うことは?

一緒にプレー出来て嬉しいし、盗み所満載というか(笑)、すごく可能性を感じていて、プレーを見ているとわくわくしてくるし、一緒にプレーしているけどファンでもあるし(笑)。これからいっぱい盗んで、成長できるのかなと、宝の山なのかなと思いますね。このチームは。

――今後の目標を教えてください

チームとしては、確実に残留することですね。上位に食い込めたらなと思っています。個人としては、ディフェンスを評価されているので、ディフェンスのクオリティーを向上できたらいいなと思っています。後はアタックですね。立ち位置やポジショニングの仕方とか、色々と課題が出たので、改善、向上していければと思います。

――トップリーグで試合することをどのように感じていますか?

自分は、喜びが大きいと感じています。本当のトップの人たちがいるリーグなので、チャレンジ精神というか、自分の力がどこまで通用するかというのを、個人的にもチームとしてもチャレンジしていきたいと思っています。これからもすごい楽しみですね。