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小嶋 信哉 Shinya Kojima

フォワード・LO

小嶋選手は、大学まではバスケット界で名を馳せていた有名選手だったが、社会人からラグビーを始め、いまやトップリーグで活躍するという異色のラガーマン。日本人初のNBAプレーヤーとなった田伏勇太選手は、能代工業高校バスケット部のひとつ後輩にあたる。

小嶋 信哉

バスケット一筋に歩んできたが、意外な偶然でラグビーとの出会いが。

――バスケットだけでなく、陸上でも優秀な成績を残されたと伺いました。子供の頃はスポーツに熱心だったのですか?

私の小学校は季節に応じてスポーツをやらされるという学校でした。全校生徒が少なかったので、5人で競技できるバスケット部しか通年でやる部活はありませんでした。バスケットは冬のスポーツなので、それ以外の季節は陸上だったり、相撲だったり水泳だったりスキーなどをしていました。どの競技も大会2週間前くらいからバスケット部の中でも特に運動の得意な人が呼ばれて練習をしていました。2週間後に大会に出て、終わったらまたバスケットの練習をしてというサイクルでした。中学校も同じような環境で、陸上では結構成績は良かったですね。

――中学生の時に、陸上では三種競技で1位になったらしいですね。

県大会でなりました。「三種B」と言う種目で、走り幅跳び、400メートル走と砲丸投げを行なう競技です。このころは個人競技の方が好きだったのですごく嬉しかったです。

――小さい頃から体を動かすことが好きだったのですか?

そうですね。夏休みになると友達の家に朝の5時から遊びに行ったりしていて怒られたりしていました。鬼ごっことか、山に登ったりだとか、水がなくなった川のヘリみたいなところを駆け上ったり、無茶なこともたくさんやっていました。結局最後まで一緒に遊んでいた奴が、そのまま中学校に上がってもずっと同じバスケット部でいっしょでした。

――ところで叔父さんがお相撲さんだと伺いました。

そうなんですよ。うちの母の叔父さんが横綱なんです。私も高校生の時に初めて母親に聞かされてビックリしました。秋田県出身の横綱は一人しかいないらしく、照国(てるくに)という力士です。

――やっぱりご家族の方は体が大きかったのでしょうか?

母方の家系は大きいですね。父親は小さいんですけど、父親の弟も私と同じくらいあって、私の弟も186cmなので大きい家系なのかもですね。

――話は戻りますが、小学校からバスケットに熱中していたんですね。

1年通して出来るのがバスケット部しかなかったので仕方なく・・・。中学校に上がると野球部があったんですが、野球の経験は無かったのでバスケットを続けました。熱中しだしたのは中学に入ってマイケル・ジョーダンのビデオを見てからですね。あの方はバスケットの神ですよ!

――高校時代はバスケットの強豪校である能代工業に進学します。

中学校2年生の時に声を掛けていただきました。たまたま能代市のほうで中学の県大会があって、能代工業で大会前日練習させてもらっていました。その時に声を掛けていただいて、それから能代工業を意識しだしました。

――能代工業の練習はとてもハードだと聞きます。練習にはついていけましたか?

4月に入学して7月くらいには1年生全員疲労骨折していました。1年生の時は走りまくってましたから。ただ、運良く1年の頃からレギュラーで出場していたので、練習以外の面では先輩も甘めに見てくれてましたね。厳しい毎日だったので、支え合った同期たちとの絆はかなり強いものがあります。

――優勝経験も多かったですね。

高校3年間で9大会(インターハイ、国体、ウィンターカップ)あり、そのうち8大会優勝することができました。
1敗は1年生の国体でした。沖縄県に1回戦負けました。もの凄くショックで、チーム自体もかなり落ち込んでました。敗戦直後はいろいろ大変な事がありましたが、部員全員が一つとなり良い流の練習を毎日続けていく事ができました。2ヵ月後に3大大会の1つである冬の大会が始まって、そこでまた優勝することが出来ました。あの経験で、日々の練習内容の質を全員が意識するようになりました。あの国体以降は負けることなく卒業式を迎えられたので、今でもデカイ顔して母校に帰れます。(笑)

――高校日本代表にも選ばれました。

高校2年生の時に初めて選ばれました。その時アジア大会に出場して、今NBAで活躍している中国のヤオ・ミン選手と対戦しました。229cmの見たこともないくらいのでかさでした。ただでかいだけではなく、ボールを運んだり3Pシュートを打ったりとなんでも器用にこなしていました。世界のレベルを体感しました。

――高校ジャパンの頃のお話を聞かせてください。

2年生の時はアジア大会に出場し韓国、中国、台北、カタールなどと試合をしました。結果は3位でしたね。3年になって大会というのがなかっため、強化合宿的な形でスペインとアメリカ、韓国に遠征に行って各国の強豪校と戦ってきました。とくに印象に残っているのは全米のベスト4のチームとの対戦ですね。高校生でNBAのドラフトにかかっている選手がいるチームでした。エースの選手は不在だったんですが、残りの選手も上に跳ぶ能力が凄く高くてビックリしました。横に動く事は日本人の方が得意だという事がわかりましたが高さには勝てず敗戦したのを覚えています。アメリカやヨーロッパには僅差で負けていました。高さに対して速さで勝つ能代スタイルが通用しなかったのが悔しかったです。その頃は能代工業高校自体がチームとして完成度が高かったため、能代工業のメンバーがそのままジャパンのメンバーになっていました。ですから特に意識することなく、能代工業で自分達がやってきたことをどれだけ出せるか、ということに注力してました。気持ち的にはいつも通りでした。海外は宿泊施設とか食べ物や水が合わなくて大変でしたね。特にマレーシアは1日1kgずつ体重が減って、10日で10kg減って帰ってきました(笑)。日本の食べ物が一番おいしいです!

――どんなプレーを得意とする選手でしたか?

走るプレー、速攻ですね。リバウンドを取ったらすぐ走る。大きい人間を走らせるというのが能代のスタイルでしたので。

――大学は専修大学に進学し、バスケット部に所属します。その頃を振り返ると。

私が1年生の頃のポイントガードだった先輩が専修大学に行っていたので。あとは関東で1部のところに行きたかったですし、能力の高い選手がたくさんいる事も知っていましたので、一緒にバスケが出来たらと思って行きました。一つ上の代の人数が少なくて、自分たちが早めに中心となっていて、僕も1年生の時から試合に出させてもらっていたので、好きなようにやっていました。ただやっぱり、練習の質が高校と全く違いすぎて、その事が凄くショックで辞めようかなと思った時もありましたね。その時は高校の先輩に止めらましたけれども。

――どのような違いでしょうか?

試合に負けても笑っていたり、飲みに行ってしまったりして、なんと言うか「軽い」と感じました。しかも格下である2部リーグのチームに負けているのに。「こんなのでいいの?」と思いました。僕が入った時はそんな文化というかスタイルでしたけれども、それが段々と変わっていきまして、僕が4年の時にはインカレの大会で上位に入れるようになって、次の年には優勝していましたね。自分たちの代で初優勝したかったですね。悔しいです。

――大学卒業後は日本IBMに入社しラグビーへ転向します。どういった経緯でラグビーへ転向したのでしょうか?

専修大学の体育会は、全ての部が夏に北海道に集まって各地に散らばって合宿をするんですけれども、2年の夏合宿でたまたまバスケット部の隣がラグビー部の合宿所だったんですね。そのラグビー部にスポットコーチとしてIBMの元監督だった大西一平さんが来ていまして、夏だったので体育館を開けて練習をしていたところ、目に付いたと聞きました。

――その時に声を掛けられたのですね?

そうですね。最初は大学2年生の時だったと思います。でもその時に私は社会人でもバスケットをやりたいと思っていたので、まあ、無視というか「ふざけんな」と思っていました(笑)。3年生になっても言われ続けていました。合宿の打ち上げでコーチ同士が一緒に飲む機会があったらしく、そこでコーチ同士が知り合いになって、バスケット部のコーチからも「(大西さんが)ラグビーやらないか?って言ってきてるんだけど・・・」と毎週言われるようになっていたんですね。その度に「いや、やらないです」とずっと言っていました。とりあえず試合を見に来てほしいと言われていましたが、電話が掛かってきても最初は無視をしていたんです。ただある日に電話に出てしまった時がありまして、あまりにも熱心だったので東日本リーグの開幕戦を見に行ったんです。それまで僕はラグビーを見たこと自体が無かったんですね。それで初めて観戦して肉と肉がぶつかり合う「音」にゾワゾワと感じるものがありまして、勧誘されるときの口説き文句にあった「ラグビーの熱さ」を実際に目にして、「あ、本当に熱いスポーツだな」と思って、ラグビーをやろうと決めました。

――ラグビーに対する恐怖はありませんでしたか?

その時はあまり思いませんでした。それよりもラグビーを観戦した衝撃の方が大きかったです。フィジカル的に大学のバスケットで負けたと思った事がないので、同じ人間だし大丈夫だろうと、最初は軽い気持ちで思っていました。まあ、バスケットの感覚で考えたのが間違えだったのですが、入部して大変な目にあいました(笑)。

――IBMに入社するまでにラグビーの勉強などはしていましたか?

入社するまではバスケットだけやっていていいと言われていたので、全くしていなかったです。大学最後の大会が1月なので、終わってからは一応ルールブックを買って読み出したりはしていました。

――IBMに入社後、すぐに練習に参加したのですか?

入社する前に一度見学に行ったんです。そうしたら皆さんがデカ過ぎたので、84kgじゃまずいなと思いまして、4月までに自分でメニューを考えてウエイトをして92kgくらいまでにはしたんですね。それでもまだ軽いということで、最初の一ヶ月半くらいは大阪のスポーツセンターでの体作りを命じられまして、単身の出稽古じゃないですけど、合宿みたいなのに参加して体をつくっていました。そこには神戸製鋼の方も来ていたようで、全日本のバレー選手など色んな方がいました。吐くような練習の毎日でした。

――どんな内容のトレーニングですか?

朝から晩までサーキットトレーニングですね。朝やって昼食べてすぐやって昼寝してまた夜やって・・・そんな感じで一ヶ月半やっていました。腿上げ1000回とか・・・。大きくなると思いきや全然ならなくて(笑)。まぁ、体力だけはつきましたけど。それでもチームに合流して初めてグランドで人とぶつかる練習をした時は、息切れが凄くてビックリしました。スポーツセンターでは自分の体重の負荷で動くことしかやっていなかったですし、それまでやってきたバスケットもコンタクトスポーツと言われていますが、ラグビーとは比べられるものではないので、人の負荷がかかるとこんなに辛いのかと、これを平気な顔でやっている先輩方はすごいなと思いました。重さに慣れるのに2年くらいかかった気がします。

――ボールに触って練習をしたのはいつ頃からですか?

すぐ触ったと思います。大阪の合宿から戻って、5月末です。それからすぐに、いきなり神戸製鋼との練習試合で後半最後10分くらいに出場しました。

――初めての試合が神戸製鋼相手とは凄いですね。どうでしたか?

タックルは走ってくる相手を追いかけて捕まえればいいと思っていたので、3本くらい出来ました。その頃の練習で私はまだ「タッチフット」しかした事がなかったので「タッチフット」のルールで、パスを貰ったらチョンと蹴って始める行為をそのまま試合中にやってしまいました。みんな試合中ピタッと止まってしまって「何やっているんだ、こいつ?」みたいになって、チームメイトの応援団は大爆笑していました(笑)。

――その時のポジションはLOでしたか?

最初はウィングをやれと言われていたんですよ。でも、もちろんボールは蹴れない、パスも出来ないですし、何も分からなくて。それから2ヶ月くらいでフォワード行けって言われて、それからLOですね。

――練習では丁寧に教えてもらえましたか?

全くそんな感じではありませんでした。自分で盗めというか。分からなかったら聞きに来いって感じでした。IBMもその当時、東日本リーグに上がった時期でしたので、何者か分かんないやつに構っている暇も無いみたいな感じで(笑)・・・怪我している先輩や、手が空いている先輩見つけて、パスの仕方だったり、全部聞いていましたね。

――最初は何に一番苦労しましたか?

「温度差」ですかね。ラグビーってワーっと気持ちが熱くなるじゃないですか。バスケットだと熱くなったら負けなので、全体を見るというか、一歩引いているんですよね。その温度差についていけない。慣れるのに3年くらいかかりました。確か「3年やっても駄目だったら辞めろ」って言われていたんです。それで3年経っても何か駄目だなーと自分的には思っていて・・・でも監督からは辞めろとは言われなかったんです。だからもう1年思いっきりやってみようと思って、がむしゃらにやりました。毎日がむしゃらにやっていたら克服できましたね。

――挫折しそうになることはありませんでしたか?

ありません。私が選んできた道なので。今まで積み上げてきたバスケットを捨てて来たので、バスケットをずっと応援してきてくれた人を裏切るじゃないですけど、それを捨ててもラグビーをやりたくてこの道を選んだので。それを途中で駄目からやめるなんて絶対言えない、と思っていました。今でもやりきろうと思っているので。

――IBMでスタメン出場が出来るようになったのは何年目からですか?

4年目からです。

――監督からはどういうプレーを指示されていましたか?

とりあえずパスはするなって言われていました(笑)。「お前なんかパスしなくていい」と言われていました。だから未だにパスは出来ませんけど(笑)。パスをしたら怒られていました。あとはフィジカル使ったプレーですかね。器用なことしなくていいからとにかくぶつかっていけみたいな。

――バスケットの経験が活きていると感じることありますか?

ラインアウトの空中戦でのハンドリングですね。昔はもっとあると感じてたんですが、最近はバスケットの記憶が薄れつつあり・・・。

もっともっとラグビーを楽しみ続けたい。

――そして2009年にShiningArcsに入団します。その経緯は?

IBMが強化縮小になってしまって、廃部になるかどうかという状況でした。私はラグビーがやっと楽しくなってきたところだったので、まだやりたいという気持ちが強かったです。その時に声を掛けてくださったShiningArcsはこれから強化をしていくチームだと伺ったので、すぐに飛びつきました。まさか自分に声をかけてくれるチームがあると思っていなかったので。

――チームにはすぐ馴染めましたか?

トップイースト時代に対戦していましたし、歴史は知りませんでしたが、チーム自体は知っていました。下山さんがいましたし...IBMの飲み会に下山さんがいつも居たんですよ(笑)。みんな優しくてまじめで、チームの雰囲気も良かったので早く馴染めたと思ってます。

――昨シーズンを振り返って・・・

個人的には公式戦に出場できなかったので悔しいシーズンでした。もう一度、身体から鍛えなおして出直します。チーム的には良い選手もいっぱいいて、トップにも十分通用するチームだなと思いました。何試合かあったように接戦まで行くけれども勝てないというのは、やっぱり経験なのかなと。一人一人がもっと色んな状況を想定して、日々の練習から取り組んでいければ昨年より良い成績が残せると思います。練習の質と量が選手の自信になるので、日々の練習が全てですね。まだ年齢が上の先輩達が活躍しているチームなので、下克上というか先輩を喰ってやるぞ、という若い選手がもっと出てくればどんどん強くなるチームだと思います。

――今年はどんなチームになると思いますか?

毎週、林ヘッドコーチから一つ一つ目標を貰っていて、その必要性を皆理解して練習に取組めているので、1日1日の練習に覇気があるというか、やる気が感じられて昨年より質の良い練習が出来ていると思います。今年は走ると言っているので、横にボールがたくさん動いてシャイニングアークスがボールを保持しつづけるようなラグビーをお見せできるのではと思っています。

――ラグビー選手として次の目標は?

もっとラグビーを楽しみたいですね。もっと試合中に色々考えて動けるようになりたい、という面もありますし、本能のままに動けるようになりたいとも思います。考えないで動くプレーと、考えて動くプレーをもっと明確にしていきたいですね。その状況に応じた一番いいプレーを選択できるプレーヤーになりたいです。それと、馬屋原先輩のように長くプレーをし続けたいです。

――小嶋選手にとってのラグビーの魅力とは?

チームメイトみんなが同じ方向を向いて熱くなって取組めるスポーツだと思っています。たとえ出場できてない選手でも熱くなれる、こんなにも一体感あるスポーツは他に無いんじゃないかと思います。

――最後にファンの皆さんに一言お願いします。

いつも応援ありがとうございます。皆さんの応援が選手達にとても大きな力を与えてくれます。私たちも皆さんに何か感じて貰えるような試合をしていきたいと思いますので、今後とも応援よろしくお願いします。