選手FOCUS / IN FOCUS

木曽 一 Hajime Kiso

フォワード・NO.8 / FL

数々の代表歴を始め、そのラグビー歴は輝かしいものだが、決してエリート街道を歩んできたわけではない。自分で考え、自分で決断しながら、自ら道を切り開いてきた。その経験値とラグビーにかける熱い想いとが、いまチームに大きな力を与えている。

木曽 一

日本代表に選出されて、ラグビー漬けのシーズンを送り始める

――ラグビーが盛んな大阪の出身ですが、ラグビーを始めたのはいつからですか?

始めたのは5歳ですね(笑)。動くことが大好きだったんですけど、近所のお兄ちゃんとか下の子とかも、年齢関係なくいつも良く遊んでもらっていて、本当に外で遊ぶのが大好きだったんです。僕自身はサッカーをやりたいなと思っていたんですけど、僕の住んでいた地区にはサッカーチームは無いけど、ラグビースクールならあるらしいぞと親父から聞いて、入ってみるか、という感じでした。近所で遊んでいた4つ上のお兄ちゃんがラグビーをやっていて、その子と一緒に連れて行ってもらえと親父に言われて、イヤイヤ1年間くらい通っていました。1年間は相当嫌だったですね。

――最初は何が嫌だったのですか?

日曜日の朝が練習だったのですが、その頃テレビで「キン肉マン」をやっていまして、見られないと次の日に学校の話題に入れなくて(笑)。他のみんなは野球をやっていて、うちの学校でラグビースクールに入っているのは10人もいませんでした。

――ラグビーを好きになっていったきっかけは?

2年目くらいからポジションが変わって、スタンドオフになりました。ハーフから一番にボールをもらえるので、とにかく縦横無尽に走れたんですよ。それからラグビーが面白くなってきましたね。その頃からでかかったのでパスをせずにハンドオフしながら走っていました(笑)。

――中学生になってもラグビーを続けましたか?

中学校にラグビー部が無くて、サッカー部もないんですよ。それで、仕方ないので陸上部に入りました。だから放課後は陸上をやって、日曜日はラグビーっていう生活でした。1年生の頃は好きな競技を選んでいいので「走り幅跳び」をやっていました。でも全然記録が伸びなくて(笑)、2年生の頃に先生から「お前背が高いからハードルやったらどうだ?」と言われて、中3までハードルをやっていました。

――部活をやりながらラグビースクールに通うのは大変だったんじゃないですか?

ラグビーはラグビーで新しい面白さがありました。中学校からポジションがFWに変わったんですよ。今までは縦横無尽に走ってトライを取るだけでしたが、徐々にラグビーってこういうスポーツなんだって思うようになりました。でもどちらかというと陸上は毎日やっているし、北大阪大会で優勝することを目指していたので、陸上部の部活の方が比重は高くなってきました。

――高校ではラグビー部だったのですか?

最初はサッカー部に入ったんです。中3でJリーグが始まりまして、煽られたんでしょうね、新入部員が100人ぐらいいました。でもやっぱり中学校からやっている子たちに比べると全然レベルが違うし、僕の体格を見たサッカー部の顧問の先生から「キーパーやってみないか?」って言われてしまって、僕のいるところじゃないなと思って三日で辞めてしまいました。それに、ラグビー部の顧問の先生からは、入学式からずっと声を掛けてもらっていて、やっぱりラグビーに戻ろうと思ってラグビー部に入りました。

――高校生当時を振り返って

僕は高校のときは恐ろしく走れなかったんです。自分の中に「でかい奴は走れなくて当たり前」って考えがあって、それにラグビースクールからラグビーをやっていたから手先は器用だったので、走ることをちょっとさぼってしまったんですね。高校3年の7月の夏に高校ジャパンの候補合宿に呼ばれて、3千メートル走があったのですが、ものの見事に僕は後ろの方で、フロントローよりも遅くて、タイムオーバーしてしまいました。周りの同じ体格の選手は、全然前を走っていました。それが悔しくて、そこから走るようになりました。高校ジャパンの合宿がすごくしんどかったんですけど、その後自分の高校に帰ってみたら、周りの選手との差がすごく開いているような感覚だったんです。たった1週間で自分が成長したことを感じ、成長することの楽しさを知ったのが、自分の中で何かが芽生えた瞬間でした。

――高校ジャパンには選ばれましたか?

最終的には選ばれました。走れない弱点は、高校の先生に相談しに行って「一緒に走ろうか」と言っていただいて、高校の全国大会は県予選で10月に負けてしまうのですが、その後もずっと走っていました。次の年の3月に遠征でスコットランドに行くのですが、その時には17分だった3千メートルのタイムが12分になっていました。必死で走りましたね。

――その当時は卒業後の大学ラグビーのことも考えていましたか?

日本代表合宿を経て、僕がラグビーに目覚めたときには大学は立命館大学に決まっていました。でも「ラグビーをやってもどうせ大学まででしょ」みたいな考えが自分にあって、大学まででラグビーはもうやめて、大学を卒業したら普通に就職しようと思っていました。それで、理系の方が就職に有利なんじゃないかと思って、理工学部のある立命館を選びました。大学1年生のときに7人制の代表に呼ばれて、そこで出会ったコーチ陣に、頭を使ってラグビーをすることを初めて学びました。本当にラグビーにのめり込むようになったのは大学に入ってからですね。

――7人制の国際試合は何試合くらい経験しましたか?

もう覚えてないくらいたくさん出ています。1998年から2000年はずっとセブンスをやっていた気がします。めっちゃしんどかったのは、ニュージーランド、フィジー、オーストラリアを連続で回る遠征試合があって、それで帰ってきて三日後にワールドカップ予選だったので、マレーシアに飛んで二日間で11試合やって、その一週間後に香港に行って香港セブンスをやって、東京に戻ってそのまま試合をやって...その時は本当にしんどかったです。

――数々の国際試合に出ていますが、その経験で得たものは?

環境の変化に動じなくなりましたね。日本でラグビーをやっていると本当に恵まれた環境でやっているんだなと思いますが、例えばセブンスの遠征では、食事が不十分だったり、不意にストが起きたりしたりして空港で5時間待ちぼうけしたりとかもあります。でもその時に、いろんな環境に適応していくタフさは身についたと思います。

――では大学時代はジャパンでの活動の方が大変でしたか?

そうですね。3年生のときは、海外遠征で1年間ほとんど大学にはいなかったですね。遠征から帰ってきてリーグ戦だけ出るだけみたいな感じでした。99年に7人制で呼ばれて、その後に15人制の代表に呼んでいただきまして、シーズン中は休む間もなくラグビーをやっていました。

――3大会続けて、ワールドカップ15人制の代表に選ばれていますね。それぞれの年のワールドカップで感じたことは?

99年は本当に連れていってもらった感じですね。出場メンバーには選ばれなかったのですが、こんな世界があるんだという衝撃を受けました。その年はウェールズで開催だったのですが、8万人くらい収容できるスタジアムで、ウェールズが入場してくると隣の人との会話も大声で話さないといけないくらい稲妻のような歓声が鳴り響いて、思わず鳥肌が立ちました。こんな環境でこんな文化があるんだなって、初めて感じた出来事でした。それで、3大会の中では2003年はずっとレギュラーで出場することが出来ていたので一番充実していたのかなって思うんですよ。2002年に代表を1年間外されて、2003年の春にまた呼ばれたので、必死に練習してやっと掴んだレギュラーでしたので。2007年はメンバーにも入れるかどうかもわからない状況でしたが、開幕戦のオーストラリア戦で出場できて、「あー選ばれた。良かった」という感覚でプレーしていたのかもしれません。ちょうどマーク・ジェラードがその試合に出ていました。彼はその試合で怪我していましたけど(笑)。

――話は少し戻りますが、立命館大学を卒業してヤマハ発動機ジュビロに入社します。その経緯を教えてください。

優勝したことのあるチームに行っても面白くないんじゃないかな、というのと、自分の性格上、押し付けられるのがすごく嫌なタイプなので、カラーの決まっているチームに行くのは面白くないという思いはありました。2000年に一緒にプレーをしていたスコット・ピアースという選手がいたのですが、その彼がヤマハのBKコーチでした。FWコーチにはケビン・シューラー(元オールブラックス選手)がいて、この二人がいたことがすごく大きな決め手になりました。あと、個人的な事情ですが、大学4年の時に親父が亡くなって、母親が一人になってしまうので、極力関西で試合をした方が、家族が試合を見にこられるのかな、という考えもあって関西のチームを選びました。「ラグビーは10年間、会社生活は残りの30年がまだあるから、40年で見たらやっぱり会社を見て選ばないとね」ってよく言われますが、僕はその考えに違和感を感じていて、そのラグビーが出来る10年間の中身が濃い方が僕は大切じゃないかなと思っていました。ラグビー的にはヤマハとNECで迷ったんですけど、最終的には関西のチームということでヤマハに決断しました。

――ヤマハ発動機ジュビロでラグビーをしてみて思ったことは?

いや本当に面白かったです。独自のラグビー戦術を組んでいて、それが僕にフィットしていて楽しくて仕方がなかったです。特にバックスラインにFWが1枚、2枚ばんばん入っていくプレースタイルだったので、本当に楽しかったです。一番感じたのは「熱さ」というか、めちゃくちゃ熱いチームだったんですよ。先輩方も一生懸命やっていて、自分としてはそこが一番惹かれたのかもしれませんね。特に僕が入社した1年目なんかは、みんなで励まし合いながらしんどい練習をして、強くなりたいという一心で練習していました。

――ヤマハではキャプテンも務めていましたね?キャプテンとして大変だったことは?

2005、6、7年とキャプテンをしていました。2005年の1年目は本当に悩みました。2003年、2004年と2位、3位ときていたので、周りからは「もう優勝だよね」というプレッシャーがすごくありました。キャプテンになる前は「もっとこうしたらいいのに」という思いが燻っていましたが、いざ自分がキャプテンになってやろうとしたら、一人じゃなんにも出来ないということを後から学んだ気がします。就任した年は6位に順位を落としましたが、翌年にはまた3位に上がりました。その時に変化があるとすれば、周りを信頼して任せるということを僕は覚えたんだと思います。

勝ちたい想いはひとつ

――そして今季からShiningArcsに移籍してきました。チームの最初の印象は?

チームに来た時は、僕まだ膝の怪我のリハビリ中で試合に出られたのは8月の末だったんですよ。だから結局、夏合宿も外からチームを見るということしか出来なくて非常に歯がゆく感じていましたが、非常におとなしいいチームだなって思って外から見ていました。一人一人とちゃんと話せばしっかりした意見を持っているのですが、チームの中で意見することを恐れているように思えて、非常にもったいないなと思いました。でも若い選手なんかはいい選手がたくさんいると思うんですよ。この前も石神(勝選手)と話をしたのですが、このチームは本当に宝の山だねって。本当にいい選手が多くて、試合に出ているからといって僕もうかうかしていられないなというのが正直なところです。

――同じく移籍してきた小林選手も、コミュニケーション不足のことは指摘していました。木曽選手が入ってきて、状況に変化はありましたか?

シニアメンバーが一週間に一回くらい、コーチ陣と戦術戦略ミーティングをやっていますが、そのミーティングでも、練習の中で選手同士がコミュニケーションを取れる時間を欲しい、ということは何度も訴えました。まあ、チームの首脳陣にはうるさい奴が来たって思われているんじゃないですか(笑)。でもいつもコーチ陣と話をしますが、向いている方向(勝ちたい思い)は一緒なので、遠慮はしないで意見交換はよくしています。自分もやっぱり勝ちたいという情熱がありますので、そこで意見することを我慢するということは自分を否定しているような気がするので、極力意見はしていこうと思っています。

――移籍したばかりですが、チームを引っ張っていく存在でもあると思います。今後どのようなチームにしたいと考えていますか?

トップリーグでの戦いを見てもらえれば分かっていただけると思いますが、能力はあるチームだと思うんです。でも、それに対して自信が無かったり、勝ち方を知らないためか、接戦で競り負けるんですよね。それをどう今後勝っていくのか、そういったクロスゲームに慣れていく事、そしてどうやったら勝てるのか、選手自身で考えていくことが大切だと思っています。そしてトップリーグを盛り上げられるチームになりたいですね。どのチームも今はウチとやりたくないんじゃないですかね。安心して勝てるようなチームではないので。相手に嫌がられるようなチームになっていきたいと僕自身は思っています。

――サポーターの皆さんに向けて一言お願いします。

シャイニングアークスのサポーターは、日本一だと思います。毎試合、どこへ行っても多くの方が応援に駆けつけてくれます。それが自分を興奮させてくれるというか、幸せにも感じますし、嬉しく思っています。一つでも多く勝って、一緒に熱くなれる、楽しませられるゲームというのを意識してやりたいです。"観ていて応戦したくなる"そんなチームになっていきたいですね。
これからも一戦一戦熱くプレーしていきますので、是非グラウンドで一緒に熱くなりましょう。応戦よろしくお願いします。